神山研究室
Ver. 3.0
最終更新日:2004/12/10
(テキスト:プラトン『テアイテトス』、田中美知太郎訳、岩波文庫、1966年。)
2004年度秋学期「人文学テーマ演習」
【テキスト】
「テアイテトス (…)何かを知識している人というものは、知識しているそのものを感覚(感受)しているものなのです。すなわち、(…) 知識は感覚にほかなりません。」(38頁、151E)
「ソクラテス (…)君が知識について語ったのは、容易ならん説のようだて。プロタゴラスの説がまたそれらしいんでね。もっともこの同じものを語るのに彼はある違った言い方をしたにはしたんだがね。すなわちその主張には何でもこんなことが言われているようだ。「 あらゆるものの尺度であるのは人間だ。あるものについては、あるということの、あらぬものについては、あらぬということの」ってね。」(38頁以下、152A)
「ソクラテス それでは、彼の言おうとしているのは何でもこういうようなことではないのか。おのおののものが何らかの様子で僕に 現れている場合、そのものは僕にとってそのようなものとして あり、また君に何かの様子で現れておるならば、それはまた別に君にとってその様なものとしてあるというのではないか。そして人間というのは、この場合の君や僕がつまりそれだというのではないか。」(39頁)
「ソクラテス (…)その「 現れている」というのは、ひとがそれを「 感覚している」ということであろうが?」(40頁、152B)
「ソクラテス (…)感覚には常に(感覚した通りに) あるところのもの(有)が対応するから、それは偽りなきものであって、その点それは知識そっくりなのである。」(40頁、152C)
「ソクラテス (…)それは実に容易ならん言説なのだ。つまり 何ものも他と没交渉にそれ自体でそれ自体にとどまったまま単一であるというものはないというのだ。(…)むしろ、すなわち、すべてのものは運動あるいは更に一般的な動きというものからなり、また相互の混和からなるともいうのである。そしてちょうどこれらすべてのものをわれわれはある と言っているけれども、これらに対してこの語を用いるのは正しくないというのだ。なぜなら、何ものもいかなる時においてもあるということはないので、始終なるのだからというのである。そしてこのことについては、パルメニデスを除くすべての智者が相並んで同一歩調をとっているとみてよい。」(41頁、152D)【問題】
- 「知識=感覚」説と「人間=尺度」説が同一の主張として捉えられる理由はなにか。
- 「現れる」ことと「感覚している」ことは同じことか。
- すべてのものが「ある」のではなく「なる」のであれば、感覚には「あるところのものが対応」しないのではないか。「あるところのものが対応する」ということに知識の概念があるなら、ひいては、感覚は知識たりえないのではないか。
【一つの部分的解決】
「人間=尺度」説は、「知識=感覚」説より外延が広く、また、「現れる」ことは、「感覚している」ことよりも外延が広い。もっとも、こういう場合でも、プラトンに対して公平であるためには、「感覚」が五感にとどまらないことに注意が払われるべきだろう。しかし、これらの間はぴったりと重ならないものがあり、前者に余剰があることを予想すべきである。
【テキスト】
「ソクラテス (…)「あると思われているものすなわち生成は、動がこれを供給するが、あらぬこと、亡くなることは静がこれを提供する」という言論(…)」(42頁、153A)【問題】
- 「生成⇔消滅」、「動⇔静」の二項対立は可能か。それはどのような意味でか。
【一つの異論】
あるもの(A)の消滅が他のもの(B)の生成であることがある。すると、この事態は、生成であるのか消滅であるのか、あるいは、動が供給しているのか静が供給しているのか。少なくとも、こうした事態を捨象してのみ、上記言論が成立する。
【テキスト】
「ソクラテス (…)何ものも他と没交渉にそれ自体で単一にあるものではないというのがその前提だった。そうすれば、黒だって白だってそのほかの何の色だって、それは眼がおのれに適合する運動に向かってぶつかるところから生じたものであるということがわれわれにははっきりわかるだろう。そしてわれわれがそれぞれの色であると言っているものは、その ぶつかるものでもなければ、ぶつかられるものでもないということになるだろう。むしろなにかその間に(互に)生じたものなのであって、 各者各別にできているということになるだろう。」(45頁、153E)
「ソクラテス ところで、いま僕たちが何かと並んで丈を比べたり、それに触れたりするとして、その丈を比べる相手なり、触れられるものなりが、 もともと大きなものであったり、白いものであったり、温かいものであったりするとしたら、そのものはいやしくも自分が少しも変化しない以上、他のものに出会ったからといって、何も違った他のものになったりすることはなかったはずである。」(46頁、154A)
「ソクラテス (…) 骰子をまあ六つばかりとって、それからそこへ君が骰子を四つもって来るとするのだ。そうすると、それは四つのより多くて、その一倍半あると、こうわれわれは言うことになる。次にそれを十二もって来るとするのだ。そうすると、それはこれより少ない、これの半分だと言うことになる。そしてこれより他の言い方は断じて容認されんわけだ。」(46頁以下、154C)【問題】
- 議論の流れとの関係でソクラテスが「もともと」の観点を持ち出した意味をどう説明するか。
- 比は、数それ自体としては意味がないのに、比を表す数の比較がなされることの意味をどう説明するか。これを、まったくのナンセンスと決め込むことができるか。
【テキスト】
「ソクラテス (…)第一には、(…)自分が自分に等しいままである限りは、嵩でいっても数でいっても、何ものも決してそれ以上に大きくなったり、小さくなったりすることはあるまい(…)」(48頁以下、155A)
「ソクラテス (…)その次には、付け加えられたり、引き去られたりすることのないものは、それは増大もなく減少もなく、いつでも等しいはずだ(…)」(49頁、155A)
「ソクラテス (…)第三には、(…)前にあらなかったものが後になってしかしそれがあるということは、なることやなりゆくこことなしには不可能である(…)」(49頁、155B)
「ソクラテス さて、これら、僕の思うに、同意された三つのものというのは、かの骰子についてのことなどいろいろ論じようとすると、僕らの精神内にあって、自分たち自身で同志打ちをするものなのだ。」(49頁、155B)
「ソクラテス (…)実にその驚異(タウマゼイン)の情こそ智を愛し求める者の情なのだからね。つまり、求智(哲学)の始まりはこれよりほかにはないのだ。(…)だが、それはまあそれとして、前の話だが、あれらのものがああいうふうであるのは、どうだね、われわれがプロタゴラス説であると主張しているものを基礎にして考えるならば、それは何によってであるということになるのか、(…)」(50頁、155D)【問題】
- 議論の流れとの関係でここで自己同等態が持ち出されている意味はなにか。プロタゴラス説と自己同等態がかかわるとすれば、どの意味においてか。
【テキスト】
「ソクラテス (…) 万有は本来が動なのであって、これを除外しては他の何ものでもないのであるが、その動にはしかし二つの相(あるいは品種)があって、多いことでいえば、両者いずれに属するものも無限なのであるが、しかし機能からすれば、 作用を及ぼす機能を持つものと 作用を受ける機能をもつものとの二つになるのである。そしてこれら相互の交合摩擦から子孫が生成する。しかもそれは無限に多く生ずるわけなのであるが、しかしいずれも一対ずつ双生児となって生ずる。すなわち一方は 感覚されるものがあると、他方には 感覚が、いつもその感覚されるものとともに、一緒に産み落とされ、生ぜしめられてあるというようなわけなのだ。それでとにかくその感覚に対しては、われわれは次のような名前をつけている。すなわち視覚と聴覚、嗅覚、冷覚と温覚、更にはまた快と苦、欲求と畏憚などと呼ばれたもの、その他、名前のないものも数知れずあるが、名前のあるのももずいぶん多い。他方また感覚されるものの種族は種族で、これら感覚のおのおのと生まれを同じくするものとして、視覚には色彩が、そのあらゆる種類に対してまたあらゆる種類のものが、同様にしてまた聴覚には音声が、そのほかの感覚にもまたその他の感覚されるものどもが、その生成においてこれと生まれを共にするものとしてあるというしだいなのである。(…)」(51頁以下、156Af.)。
「ソクラテス (…)かくて、いま眼とそれから眼に合性の何か他のものとが近しい仲になって、白色を生み、またこれと双生する感覚を生んだ時、そしてこの白色やこの感覚は、眼なり眼に合性のものなりのどちらかが、 これ以外のもののところへ行ったのでは決して生じなかったはずのものなんだが、さて、これらをそれが生んだ時、視覚の方は目から出るし、これに合わせてこの色を産むものからは白色が出て、その間互いに運動して、それで目はすなわち視覚の充たすところとなり、そしてその時実に見るのである。すなわち目はその場合決して視覚となるのではなく、見ている目となるのである。また、これに合わせてこの色を生むものは、一面に白色で充たされて、これはまたこれで、白色というものになるのではなくって、白くなるのである。(…)すなわち、ちょうどこのことは先の場合にもわれわれが言っていたことなのだが、何ものも他と没交渉にそれ自体だけであるものではなく、あらゆるもの、あらゆる性質は、動から、相互の交合によって生成するものなのだ。なぜなら、これらのものどもにあって作用を及ぼすとか受けるとかするものさえも、単独に何かであると固定的に考えることは、彼らの主張に従う限り、不可能なのだから。それはすなわち、 作用を受ける相手と一緒にならないうちは、作用を及ぼす何かであることはないのだし、また作用を及ぼす相手と落合わないうちは、作用を受ける何かであることはないのだ。そして何かと一緒になって、作用を及ぼすものとなっているものも、他のものと落合えば、別にまた作用を受けるものとなって現れることがあるのだ。かくて、こららすべてからの結論は、はじめから言っていたことだが、何ものも他と没交渉にそれ自体で単一にあるものではなく、何かに対して常になりゆくものなのであるということになる。(…)」(53頁以下、156Df.)【問題】
- たとえば、「白い紙を見ているとき、見ていることを抜きに紙が白であることはない」という主張がどうしても維持できなくなる場面があるだろうか。あるとすれば、それはどのような場面だろうか。
- 「白い」という規定が各人との関係のみに帰着するのであれば、この規定は、他人との間で没交渉である。だとすれば、このように規定する意味自体がどこにあるのだろうか。「白い」という規定は、少なくとも、言語として、他人との間で交渉しうるものとして、つまり社会的な流通物としてあるのではないか。
【テキスト】
「ソクラテス (…)残っているというのは、夢と病とについてなのだ。そして後者のうちでは特に精神病と、それから〔もっと一般的に〕錯聴するとか錯視するとか、または何か他に錯覚するとか言われる限りのすべてのものがそうなのだ。すなわち、君はおわかりだろうと思うが、これらのどれをとってみても、ちょうどわれわれはこれらの中において虚偽の感覚というものを他のどの場合よりも多くもつようになるかのごとく考えられるからして、今しがたわれわれが通過して来た言論というものは異議なく論破されるように思われるのだ。すなわちここでは、各人に現われているそのものがまたありもするなどという沙汰ではなく、むしろまるで逆に、現われているもののうち何ひとつだってありはしないと思われるのである。」(56頁以下、157Ef.)
「ソクラテス (…)感覚を知識だとおいて、「各人に現われているそのものは、それが現われているその人にとって、またありもする」と主張している側の者には、一体どんな言い分が残されているのかね。」(57頁、158A)
「ソクラテス (…)もし誰かが今この現在において、われわれは眠っているのだろうか、われわれの考えているのは、これは皆夢なんだろうか、それとも、われわれはこれで覚めているんで、お互いに話し合っているのは、これは現なんだろうかと尋ねたなら、どんな証拠をさし示して、ひとはこれにこたえることができるだろうかというのだ。
テアイテトス ええ、それはまた本当に、ソクラテス、どんな証拠をあげて証明したものかと言われると確かに困ることなんです。(…)」(57頁以下、158Bf.)【問題】
- 錯覚を考える場合、その当のものだけで錯覚を語りうるだろうか、それともそれ以外のものを持ち出す必要があるだろうか。たとえば、「曲がっている」という言明の錯覚であることを指摘するとき、それとは異なる真に「曲がっている」ものを持ち出すなどということ。こうした関係は、理論的な関係だろうか、それとも実践的な関係だろうか。
- 感覚についての言明は、他人との比較において確証されると言えるだろうか。
- 他人との比較において確証されないが、しかしそれでも確信をもつ感覚とはどのようなものだろうか。
- 他人との比較において確証されない感覚を、逸脱と呼んでいいだろうか。呼びうるとすれば、どのような意味でか。
【テキスト】
「ソクラテス (…)作用を及ぼすものと受けるものとが甘旨とその感覚という、両者同時に運動するところのものを生んだということなのだ。つまり、感覚のほうは、作用を受けるものから出ていて、舌を感覚する舌に仕上げたのであり、甘旨の方は酒から出て、酒の周囲を運動して、当の酒を健康な舌に対して旨くあるように作し、また旨いものとして現われるようにしたのである。」(62頁以下、159D)
「ソクラテス (…)この方はこの方で、両者の生むものは異なるわけだったのだ。こういう(病体の)ソクラテスとその酒を飲むこととではね。つまり、舌のあたりには苦味の感覚を生じ、酒の周囲には苦味が生まれて、運動しているわけなのだ。そしてそれらのものは酒を苦味というものにするのではなくって、苦きものとなすのであり、また僕を感覚者とするのであって、感覚とするのではなかったのである。」(63頁。159E)
「ソクラテス (…)ところが、僕としても、他のどんなものを感覚するにしたところで、それをこんなふうに感覚する者となることは決してないだろう。なぜなら、そうした他のものの知覚は他の感覚であって、それはその感覚するものを他のようなものとなし、また他のものとなすからだ。また僕に作用を及ぼすものにしたところで、他のものと一緒になったのでは、いまと同じものを生んで、この今あるようなものとなるということは、万が一にも決してないだろう。なぜなら、他のものからは他のものを産んで、他のようなものになるだろうからね。」(63頁以下、159Ef.)
「ソクラテス (…)だが、僕が感覚する者となる場合には、必然に何かのそれとなるのでなければならぬ。なぜなら、感覚者とはなるが、しかし何ものの感覚者ともならぬ(何ものの感覚者でもないものとなる)なんてことは不可能だからだ。また、かの者はかの者で、甘い(旨い)とか苦いとか何かそうしたものになる場合には、何かにとってそうなるのでなければならない。なぜなら、甘く(旨く)はなっているが、しかし何ものにとって甘く(旨く)なっているのでもない(何ものにとっても甘くなっていない)なんてことは不可能だからね。」(64頁以下、160Af.)
「ソクラテス すると、結局のこるところは、ぼくとそのものとが、お互いにとって――あるなら――ある、――なるなら――なるということになるのだと思う。なぜなら、僕のありよう(有)とそのもののありよう(有)とは必然によって結び合わされているのであって、僕とそのもの以外のいかなるものにも結び合わされてはいないのだし、またそうかと言って僕の有は僕自身にだけ、そのものの有はそのもの自体だけに結び合わされているというのでもないからだ。つまり、のこるところは僕とそのものとの有がお互いに結び合わされているという場合だけになる。従って、もし誰かが何かあるという言葉を用いる場合には、その人はそれを「何かにとってある」とか、「何かのである」とか、あるいはまた「何かとの関係においてある」とかいわなければならない。そしてこのことはなるという言葉の場合においても同様である。これに反して、何かそれ自体でそれ自体にとどまったままあるとか、なるとかいうようなものは、この場合みずから口にしてはならないばかりでなく、また他の者が言っていてもこれを許容してはならないというのが、これがわれわれの通過して来た言論の指図なのである。」(64頁以下、160B)
「ソクラテス 従って、僕の感覚というものは僕にとっては真なのだ。なぜなら、それはいつでも僕にとっての有を感覚させるものなのだから。すなわち僕は、プロタゴラスの言う通り、僕にとってのあるもの、あらぬものの、あるということ、あらぬということの判別者なのだ。」(65頁、160C)【問題】
- 感覚が、感覚者の(あるいはその全体状態の)差異によって千差万別であるとき、感覚について語り合うとは、いかなる意味をもつことになるのか。
- たとえば「甘い」という言明が千差万別の感覚を包括するものであるとするとき、なおかつ「甘い」と語る意味があるのか、あるいは、「甘い」という言明には真面目ではなく、感覚そのものは語りえぬものとすべきなのか。
【テキスト】
「ソクラテス (…)ホメロス、ヘラクレイトスなどの、ああした一族のものが全体となって唱えている「あたかも流れるもののごとく万物は動いているのだ」というのも、またこのうえない智者のプロタゴラスが主張する「すべてのものの尺度であるのは人間だ」ということも、またテアイテトスの「これらをこうだとすると、感覚は知識だということになる」という断定も、畢竟は同じことに帰着してしまうのだ。」(66頁、160Df.)【問題】
- 万物流転、人間尺度説、感覚=知識説の三位一体は、いかなる点で同一性を保つのか。
(続く)
Copyright (C) 2004 KAMIYAMA, Nobuhiro