デカルト『省察』で考えるべきこと
神山研究室
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5.0
最終更新日:2004/7/15
(テキスト:デカルト「省察」、井上庄七・森啓訳、デカルト『省察 情念論』(中公クラシックスW21)、中央公論新社、2002年。)
2004年度春学期「人文学基礎演習」
【テキスト】
「同様に、私がここで用いる証明も、確実性と明証性との点では、幾何学の証明に匹敵するもの、あるいはこれを凌駕するものとさえ、私は考えておりますが、やはり多くの人々によって十分に理解されるわけにはゆくまいとおそれるのであります。それというのも、一つには、これらの証明もまた、長くつながっており、かつ一方が他方にと順次に依存しているからでありますが、また一つには、このほうがおもな理由でありますが、先入見からまったく自由となった精神、自己自身を感覚との交わりからたやすく引き離す精神、を必要とするからであります。そして確かに世間には、形而上学の研究に適した人は、幾何学の研究に適した人ほど多くは見いだされないのであります。
そのうえ、両者の間には、次のような相違もあります。すなわち、幾何学においては、確実な証明の得られない事がらは何も書かれないならわしであると、だれもが思い込んでいるので、未熟な人々は、真なる証明を拒否するというあやまちをおかすよりも、虚偽の証明を−−それを理解しているように見せかけたくて−−是認するというあやまちをおかす場合のほうが多いのであります。ところが、哲学においてはまったく反対であって、賛否双方に別れて争われないような事がらは何もないと信じられているので、真理を求める人は少なく、大多数の人々は、あえて最良の証明を攻撃することによって、才子だという名声を得ようとするのであります。」(8頁以下)【問題】
- 幾何学と哲学とを同じに扱うことが許されるか。
- 幾何学と哲学が違うとすると、それはどの点に認められるか。
- 哲学に必要な精神が、「先入見からまったく自由となった精神」であるならば、幾何学に必要な精神は、どのような精神だろうか。
- 哲学において「賛否双方に分かれて争われないような事がらは何もない」と信じられているのは、哲学の本性によるとはいえないか。−−デカルト自身が言明したそれによって。
【一つの解決】
デカルトは、哲学が幾何学以上に幾何学的に構成できると考えている。しかし、幾何学そのもののほうでは、公理以外のところで形式論理的に必然的な証明によらない真理がありえないとすれば、哲学のほうでは、「先入観からまったく自由となった精神」によって、幾何学的なものそのものすら超越するあり方も許されることがある。哲学的議論で「賛否双方に分かれて争われないような事がらは何もないと信じられている」のは、むしろデカルト自身が要求した哲学の本性によるものであって、真理を求めない大多数の人々の臆見によるものではない。【系】
- 哲学は、数学的諸学あるいは形式論理学に還元することができない。
- 哲学は、数学的諸学あるいは形式論理学を主要な方法とする諸学と区別されざるをえない。
【テキスト】
「すでに理性は私に説いて、まったく確実で疑う余地がないわけではないものに対しては、明らかに偽であるものに対すると同じくらい用心して、同意をさし控えるべきである、と確信させているのであるから、それらの意見のどれか一つのうちに、何か疑いの理由が見いだされるならば、それだけで、すべてを退けるに十分であろう。」(24頁)
「さて、これまでに私がこのうえなく真であると認めてきたすべてのものを、私は、直接に感覚から受けとったか、あるいは間接に、感覚を介して受けとったのである。ところが、これら感覚がときとして誤るものであることを私は経験している。そして、ただの一度でもわれわれを欺いたことのあるものには、けっして全幅の信頼を寄せないのが、分別ある態度なのである。」(24頁以下)
「しかし、同じく感覚から汲まれたものであっても、それについてはまったく疑うことのできないものが、ほかにたくさんある。たとえば、いま私がここにいること、炉ばたに坐っていること、冬着をまとっていること、この紙を手にしていること、こういうたぐいのことである。実際、この手そのもの、この身体全体が私のものであることを、どうして否定できよう。これを否定するのは、まるで私が狂人たちの仲間入りをしようとするようなものである。」(25頁)
「これらのことを、さらに注意深く考えてみると、覚醒と睡眠とを区別しうる確かなしるしがまったくないことがはっきり知られるので、私はすっかり驚いてしまい、もう少しで、自分は夢をみているのだ、と信じかねないほどなのである。
われわれはいま夢を見ているのだとしよう。そして、あの個別的な事がら、すなわち、われわれが眼を開くこと、頭を動かすこと、手を伸ばすことなどは、真ではないのだとしよう。また、おそらくわれわれは、そのような手も、そのような身体全体も、全然もってはいないのだとしよう。しかしそれでも、眠っている間に見られるものは、真の事物を模してでなければつくることのできない画像のようなものであり、したがって、少なくともこれら一般的なもの、すなわち、眼、頭、手、身体全体などは、幻のものではなく、真なるものとして存在する、ということは認めなくてはならない。」(26頁以下)
「そして同じ理由によって、たとえこれら一般的なもの、すなわち眼、頭、手等々でさえ幻のものでありうるとしても、しかし少なくとも、さらにいっそう単純で普遍的なものは真であるということ、そして私の意識のうちにある事物の像はすべて、真であろうと偽であろうと、ちょうどさきの新奇なものが真なる色によって構成されているように、こういう普遍的なものによってつくられているのだということは、どうしても承認しなければならないのである。
これに属すると思われるものは、物体的本性一般、およびその延長、さらには、延長をもつ事物の形、さらには、量、すなわち、これらの事物の大きさと数、さらには、これらの事物が存在する場所、持続する時間、等々である。」(27頁)
「しかしながら、私の精神にはある古い意見が刻みこまれている。すべてのことをなしうる神が存在し、この神は、実際には、地も、天も、延長をもつものも、形も、大きさも、場所もまったくないにもかかわらず、私にはこれらすべてが、現に見られるとおりに存在すると思われるようにしたかもしれないのである。」(28頁)
「そこで私は、真理の源泉である最善の神がではなく、ある悪い霊が、しかも、このうえなく有能で狡猾な霊が、あらゆる策をこらして、私を誤らせようとしているのだ、と想定してみよう。天も、空気も、地も、色も、形も、音も、その他いっさいの外的事物は、悪い霊が私の信じやすい心をわなにかけるために用いている、夢の計略にほかならない、と考えよう。また、私自身、手ももたず、眼ももたず、肉ももたず、血ももたず、およそいかなる感覚器官をももたず、ただ誤って、これらすべてのものをもっていると思いこんでいるだけだ、と考えよう。
私は頑強にこの省察を堅持して踏みとどまろう。そうすれば、たとえ、何か真なるものを認識することは私の力にはおよばないにしても、しかし、次のことだけは確かに私にできるのである。すなわち、偽であるものにはけっして同意しない、ということである。」(31頁)【問題】
- 確実であることと真理であることの関係は同一か異なるか。
- 感覚的に確かなことを疑いの対象とするために、正気・狂気、睡眠・覚醒を混同することの是非。
- 確実性を疑わせる状況である夢において、一般的なもの、普遍的なものの真理を語ることの意味。
- 外的事物、感覚器官があることを思い込みとし、それ以外に言及しないことの意味。
【一つの解決】
確実であることが真理の決定的メルクマールでありえないことをデカルトは図らずも語っている。デカルトは、確実であることを不確実なものとして投げ捨てるときに、確実であることそのものに即して語るのではなく、確実だとみなしている私の意識状態を問題にする。私の意識状態はある基準に従って区別されうるとしても、その境界を截然と設けることは事実上不可能であるから、デカルトの議論は一応成功しているようにみえる。しかし、意識状態の混濁を唯一の理由とするなら、いかに認容といえども夢における一般的なもの、普遍的なものの真理を持ち出すまでもないし、最善の神に代わって悪い霊の計略を語るまでもない。外的事物、感覚器官があることが思い込みであるだけでなく、省察者自身の意識状態を問題にしなければならないのだから、論理必然的に、その省察の思考全体を疑惑の対象としなければならないだろう。しかしながら、確実であることを不確実なものとして投げ捨てるときには、確実であることそのものに即して語るのでなければならない。つまり、確実であるとされる感覚が、私の意識状態にかかわりなく、みずから不確実になることがあるか、ということの見極めである。この見極めは可能だろうか。私は、可能だと思う。もっとも、この方法は、確実を不確実に転ずる方法なのだから、「まったく確実で疑う余地のないもの」に誘ってくれるかどうかは、不定である。この意味では、デカルトがその意図からしてこの方法をとることができないのは当然である。【系】
- 哲学が語る確実性を主観的意識の場で基礎づけようとする方法論によって、哲学は、必然的に非哲学である心理学に転落する。
- 哲学は、確実性を語る立場で行こうとすれば、主観的意識の優位の立場にたつことができない。
「ゆえに私は、私の見るものはすべて偽であると想定しよう。偽り多い記憶の示すものは、何一つ、けっして存在しなかったのだ、と信じよう。私は、まったく感覚器官をもたないとしよう。物体、形状、延長、運動、場所などは幻影にすぎぬとしよう。それならば真であるのはなんであろうか。おそらくこの一つのこと、すなわち、なんら確実なものはないということ、だけであろう。
しかし私は、いま私のあげたものとは別のもので、しかも疑う余地が少しもないようなもの、は何もないということを、いったいどこから知るのであろうか。」(34頁)
「それならば、少なくともこの私は何ものかであるはずではないか。けれども私は、私がなんらかの感覚器官をもつこと、なんらかの身体を持つことを、すでに否定したのである。しかし私はためらいをおぼえる、それではどういうことになるのか、と。私は身体や感覚器官にしっかりとつながれていて、それらなしには存在しえないのではないか。けれども私は、世にはまったく何ものもない、天もなく、地もなく、精神もなく、物体もないと、みずからを説得したのである。それならば、私もまたない、と説得したのではなかったか。
いな、そうではない。むしろ、私がみずからに何かを説得したのであれば、私は確かに存在したのである」(34頁以下)。
「このようにして、私は、すべてのことを存分に、あますところなく考えつくしたあげく、ついに結論せざるをえない。「私はある、私は存在する」というこの命題は、私がこれをいいあらわすたびごとに、あるいは、精神によって捉えるたびごとに、必然的に真である、と。」(35頁)
「それでは、精神に帰したもののうちに何かないであろうか。栄養をとること。あるいは、歩行することはどうであろうか。しかし、いま私は身体をもっていないのであるから、これらもまたつくりごと以外の何ものでもない。感覚することはどうか。もちろんこれも身体がなければ起らない。それに、夢の中では感覚していると思っていたが、あとになってみると、本当に感覚したのではなかったと判明したものが、実にたくさんあったのである。
では、考えることはどうか。ここに私は見いだす、考えることがそれである、と。これだけは私から切離すことができない。私はある、私は存在する。これは確かである。だが、どれだけの間か。もちろん、私が考える間である。なぜなら、もし私が考えることをすっかりやめてしまうならば、おそらくその瞬間に私は、存在することをまったくやめてしまうことになるであろうから。
いま私が承認するのは、必然的に真である事がらだけである。それゆえ、厳密にいえば、私とはただ、考えるもの以外の何ものでもないことになる。いいかえれば、精神、すなわち知性、すなわち悟性、すなわち理性、にほかならないことになる。これらはいずれも、いままでその意味が私には知られていなかったことばである。ところで、私は、真なるもの、真に存在するものである。しかし、どのようなものであるのか。私はいった、考えるもの、と。」(38頁)
「ところで、このように厳格に解された私、この私についての知識が、その存在をまだ私の知らないようなものに依存しないということ、したがって、私が想像力を用いて思い描くようなものにはけっして依存しないということは、まったく確実なのである。」(39頁)
「最後に、この同じ私はまた、感覚するものでもある。いいかえると、物体的なものを、感覚器官を介したものとして認めるものでもある。すなわち、いま私は光を見、騒音を聞き、熱を感じる。これらは虚偽である、私は眠っているのだから、といえるかもしれない。けれども私は、確かに見ると思い、聞くと思い、熱を感じると思っているのである。これは虚偽ではありえない。これこそ本来、私において感覚すると呼ばれるところのものである。そして、このように厳格に解するならば、これは、考えることにほかならないのである。」(41頁以下)
「それでは、この蜜蝋においてあれほどはっきり理解されたものは、いったいなんであったのか。確かにそれは、私が感覚によってとらえたもののいずれでもなかった。なぜなら、味覚とか、臭覚とか、視覚とか、触覚とか、聴覚とかに感じられたものは、いまやすべて変ってしまったが、それでもやはり、もとの蜜蝋は存続しているのであるから。」(43頁以下)
「結局、こう認めるのほかはない、この蜜蝋がなんであるかを、私は、けっして想像するのではなく、もっぱら精神によってとらえるのである、と。私はこの個別的な蜜蝋のことをいっているのである。蜜蝋一般については、話はもっと明らかであるからである。」(45頁)
「しかし、たまたま私はいま、通りを行く人々を窓ごしにながめる。そして、蜜蝋の場合と同じく習慣によって、人間そのものを見るという。しかし私が見るのは、帽子と衣服だけではないか、その下には自動機械が隠れているかもしれないではないか。けれども私は、それは人間である、と判断している。同じように私は、目で見るのだと思っていたものをも、私の精神のうちにある判断の能力のみによって理解しているわけなのである。」(46頁)
「すなわち、物体ですら、本来は、感覚あるいは想像の能力によって把握されるのではなく、ただ悟性によってのみ把握されるのだということ、また、触れたり見たりすることによって把握されるのではなく、もっぱら理解することによって把握されるのだということが、今や私に知られたのであるから、私は、私の精神ほど容易に、また明証的に、私によって把握されるものはほかにありえないということを、明らかに認識するのである。」(49頁)【問題】
- デカルトは、感覚、記憶という一部の「考える」機能の排除の仮定から進めて、感覚器官という物理的なもの、物体等のカテゴリーの排除の仮定に進む。こうした排除にもかかわらず、「知る」という一部の「考える」機能は残存すると想定されている。したがって、「知る」ということが、感覚、記憶という一部の「考える」機能、物理的な感覚器官、カテゴリーとはまったく異なる性格を有しているという直観なくしては、デカルトの言明を理解することができない。そうした、「知る」のみにかかわる性格は何か。
- 身体の所持を否定するのは、あくまで観念上の仮定であって、現実的なそれではないから、「私はある、私は存在する」と言明するときに、当然ながら身体は機能している。したがって、デカルトに忠実であろうとするとき、身体なしにこの言明がなされていると考えてはならないだろう。すると、「身体がありながら、身体とつながれていない私」を語ることができるのかどうかが、問題の焦点となってくる。
- 「私とは何か」という問に対して、デカルトは、それを「精神」と考え、それをさらに「考えること」と定める。したがって、前項の問題は、「身体がありながら、身体とつながれていない精神ないし思考」を語ることができるかどうかと同義である。
- デカルトは、他に依存しない知として「私」を語ろうとするが、しかし、この無依存性は、真実のものだろうか。少なくとも、省察を開始する以前においてこの無依存性が確実なものとして確保できるかどうかは、疑問の余地がある。もっとも、省察そのものは、「私の知らないようなもの」ではない、ということはできる。しかし、省察による媒介を「私の知っているもの」として不問に付すことができるかどうかは、議論の余地がある。
- デカルトは、「見ると思い、聞くと思い、熱を感じると思っている」ということを「感覚する」としているが、この理解は妥当だろうか。というのも、「思う」ということによって、見ることを反省し、聞くことを反省し、熱を感じることを反省しているように思えるからである。つまり、このように反省することは、感覚そのものだろうか、むしろ、それは、想像によるのではないか。なお、このことについては、この第二省察において、後にデカルトが留保している(48頁)。
- 個別的な物体を精神でとらえるとは、どのような事態を指示するか。このさい、デカルトがいうように、「蜜蝋一般」の観点から議論してはいけない。デカルトがいう「蜜蝋一般」との差異において、このことを議論しなければならない。
「私が考えるものであるということを、私は確信している。それならば私は、ある事柄について確信をいだくために必要な条件をもまた、知っているのではあるまいか。」(51頁)
「それゆえ、いまや私は、私がきわめて明晰に判明に認知するところのものはすべて真であるということを、一般的な規則として確立することができるように思われる。
しかしながら、以前に私がまったく確実で明白であると受け入れていたもので、あとになって疑わしいと気づくにいたったものが、数多くある。」(51頁)
「けれども、神の全能についてのこの先入の意見が浮んでくるたびごとに、私は、もし神がその気になりさえすれば、私が精神の目でこのうえなく明証的に直観すると思う事がらにおいて私を誤らせるのは、神にとってはたやすいことである、と告白せざるをえないのである。」(52頁以下)
「できるだけ早い機会に、神はあるかどうか、また、もしあるとするなら、欺瞞者でありうるかどうか、を吟味しなくてはならない。この二つのことが知られないかぎり、他の何ごとについても私は、まったく確信をもつわけにはゆかないと思われるからである。
ところで、いま省察の順序の要求するところによれば、まず私のあらゆる意識を一定の類に区分し、そのうちのいずれの類において本来真理あるいは虚偽は存するのかを探求しなくてはならないのである。」(53頁)
「いま観念について言えば、観念は、たんにそれ自身において見られ、他のものと関係させられないならば、本来、偽ではありえないのである。なぜなら、私が山羊を想像しようと、キマイラを想像しようと、私が想像するということ自体は、どちらの場合でも等しく真であるから。
また、意志そのものにおいても、あるいは感情においても、なんら虚偽を恐れるにはあたらない。」(54頁)
「判断のうちに見いだされうる主要な誤り、最もよくある誤りは、私のうちにある観念が私の外にある何ものかに類似している、あるいは合致している、と私が判断するところに成り立つのである。」(55頁)
「自然の光によって私に明示されることはいずれも−−たとえば、私が疑うということから私があるということが帰結すること、その他これに類したことは−−けっして疑わしいものではありえない。この光と同等に信頼できるような能力、この光の示すところを真ではないと教えることのできるような能力は、ほかにはありえないからである。」(56頁以下)
「これまで私が、何か私とはちがったものが存在し、これが私の感覚器官を通じて、あるいはなんらか他のしかたによって、みずからの観念あるいは形像を私のうちに送り込むのだ、と信じてきたのは、確かな判断によってではなく、たんに、ある盲目的な衝動によってであった、」(58頁)
「それによって私が神を理解するところの観念、すなわち、永遠で、無限で、全知で、全能で、自己以外のいっさいのものの創造者である神を理解するところの観念は、有限な実体を表示するところの観念よりも、明らかにいっそう多くの表現的実在性をそれ自身のうちに含んでいるのである。
ところでいま、作用的かつ全体的な原因のうちには、少なくとも、この原因の結果のうちにあると同等のものがなくてはならぬということは、自然の光によって明白である。」(59頁)
「観念は−−私の意識の一様態であって−−私の意識から借りてこられる形相的実在性のほかにはなんらかの形相的実在性をも、自分から要求することはない、というのが観念そのものの本性である、と考えなくてはならないのである。
ところで、この観念が、この特定の表現的実在性を含んで、他の表現的実在性を含んでいないということは、明らかに、その観念自身が表現的に含んでいる実在性と少なくとも同等の実在性を形相的に含むところの、ある原因によるのでなくてはならない。」(60頁)
「表現的なあり方が観念に、観念そのものの本性上、合致すると同様に、形相的なあり方は観念の原因に、少なくとも最初の主要な原因には、この原因の本性上、合致するのだからである。
そして、あるいは一つの観念が他の観念から生まれることがあり得るにしても、しかし、この場合、無限に遡ることはできないのであって、ついにはある第一の観念にいたらなくてはならない。そして、この観念の原因は、原型ともいうべきものであって、観念においてはたんに表現的であるところの実在性のすべてが、そこでは形相的に含まれているのである。」(61頁)
「もしも、私の有する観念のうち、あるものの表現的実在性がきわめて大きく、その実在性は形相的にも優勝的にも私のうちにはないこと、したがって、私自身が当の観念の原因ではありえないことを、私が確信しうるほどであるならば、ここからして必然的に、私ひとりがこの世界にあるのではなく、その観念の原因であるところの、何か他のものもまた存在するということが帰結する、ということである。
もし反対に、なんらそのような観念が私のうちに見出されないならば、私とはちがった何ものかの存在を私に確信させる論証を、私はまったくもたないことになるであろう。」(62頁)
「他の人間、あるいは動物、あるいは天使を示す観念に関していえば、たとえ、私以外のいかなる人間も、いかなる動物も、いかなる天使もこの世界に存しないとしても、それらの観念は、私自身と物体的な事物と神とについて私の有する観念から複合されうるということを、私はたやすく理解するのである。」(63頁)
「神という名で私が意味するものは、ある無限な、全知かつ全能な、そして私自身をも−−もし私のほかにも何ものかが存在するなら−−他のすべてのものをも創造した、実体である。まことに、これらすべての性質は、私が細心な注意を払えば払うほど、私のみからでてきたものであるなどとはますます思えなくなるようなものである。それゆえ、右に述べられたところからして、神は必然的に存在する、と結論しなくてはならないのである。
なぜなら、私は実体である、というそのことから、確かに実体の観念が私のうちにあるにしても、だからといってその実体の観念は、−−私が有限なものであるゆえ−−真実に無限であるところの、ある実体からでてきたのでないかぎり、無限な実体の観念ではありえないはずであるからである。」(66頁)
「無限な実体のうちには有限な実態のうちによりも多くの実在性があること、無限者の認識は有限者の認識よりも、すなわち、神の認識は私自身の認識よりも、ある意味で先なるものとして私のうちにあることを、私は明白に理解する」(66頁)
「有限者である私によっては把握されないというのが、無限者の無限者たるゆえんである」(68頁)
「もし、私の存在が私自身から生まれたとするなら、私は疑うこともなかったであろうし、欲することもなかったであろうし、結局私には、なんら欠けるところはなかったであろう。なぜなら、私のうちにそれについてのなんらかの観念があるところの完全性のすべてを、私は私自身に与えたであろうし、かくて私自身が神であったであろうから。」(70頁)
「私の一生の全時間は、無数の部分に分割されることができ、しかもおのおのの部分は残りの部分にいささかも依存しないのであるから、私がすぐまえに存在したということから、いま私が存在しなくてはならないということは、帰結しない。そのためには、ある原因が私をこの瞬間にいわばもう一度創造するということ、いいかえれば、私を保存するということ、がなければならないのである。
実際、時間の本性によく注意するものにとっては明らかなことだが、どんなものも、それが持続するところの各瞬間において保存されるためには、そのものが存在していなかった場合に新しく創造するに要したとまったく同じだけの力とはたらきを要するものなのである。それゆえ、保存と創造とはただ考え方のうえで異なるにすぎないということは、これまた自然の光によって明白な事がらの一つである。」(71頁)
「私は現に存在するところのこの私をすぐあとにもまた存在せしめうるような、ある力をもっているかどうか、と。〔中略〕しかるに私は、なんらそのような力があることを経験していない。そこで私はこの事実から、私が私とはちがったある存在者に依存するということを、きわめて明証的に認識するのである。」(72頁)
- デカルトが主張したい、真理保証に関する〈明晰判明〉の規則は、それ自体として支えをもたない、とデカルトは判断している。そこで、神が存在するかどうか、存在する神が欺瞞者でないかどうかを吟味する必要に迫られる。したがって、少なくとも、こうした議論の仕組みに乗るかぎり、神が存在しないか神が欺瞞者であるとなれば、〈明晰判明〉というだけで真理保証をすることができない。このように〈明晰判明〉の規則から真理保証の力がさしあたり奪われているのだから、神の存在等の吟味にあたっては、〈明晰判明〉の規則を梃子に議論をすることができない。では、〈明晰判明〉の規則を抜きに、神の存在等の吟味ができるだろうか。それがもし可能であるなら、考える私の存在の真理を保証した「懐疑」と同等の質をもつ〈自然の光〉によってでしかないだろうが、この〈自然の光〉とは何か。だとすると、〈明晰判明〉の規則は、〈自然の光〉よりも弱い保証といわざるをえないだろうが、このような評価は妥当か。
- デカルトに従って、観念、意志はつねに真であり、外部との類似・合致の判断のみが真偽判定されるということであれば、真理保証の問題は、まずもって判断のあり方だけに還元されるだろう。だとするならば、この判断における外部との類似、合致において真偽の分岐点が示されなければならないが、このことをデカルトは示しているか。
- デカルトによれば、観念の形相的実在性は、私の意識から借りてくるしかないのだから、その延長線上で考えると、表現的実在性の原因として形相的実在性を要求するとしても、それは私の意識から借りてこなければならないものになるのではないか。
- 「私自身が観念の原因でありえないこと」は、確信しさえすれば、それで必要十分なのだろうか。「私とはちがった何ものかの存在」に確信がない立場を独在論とするならば、デカルトによれば、この独在論を打破する唯一の方策は、その確信次第ということになる。
- 「私自身と物体的な事物と神とについて私の有する観念から複合されうる」という場合、「他の人間」は、「私自身」と同様に「精神」として捉えられているのであろうか、あるいは、そこには「物体的な事物」の観念が複合されているのであろうか。
- 神の存在証明にかかわって、「私が有限である」とは、デカルトはいかにして知りえたか? ここで、私が精神であることに注意せよ。後の議論で、デカルトは、引用のごとく、「無限者の認識は有限者の認識よりも、すなわち、神の認識は私自身の認識よりも、ある意味で先なるものとして私のうちにあることを、私は明白に理解する」といっている。これとの関係は、いかに考えるべきか。つまり、精神としての「私が存在する」ではなく、「神が存在する」ということが、第一原理にならなければならないはずである。しかるに、デカルトは、また、無限者は有限者によって把握されないという。
- 「私の存在が私自身から生まれた」ということで、なにゆえ「完全性のすべてを、私自身に与えた」ということになるのだろうか。私は、有限者ではなかったか。つまり、私の存在は有限者であるがゆえに、私自身から生まれるときも有限者として生まれるのであって、完全性を与えるべくもないのではないか。したがって、この場合でも、私は疑いうる。
- デカルトは、時間の瞬間点を非連続のものとして捉えているが、この理解は妥当か。さらに、保存と創造を同一視しているが、このことは妥当か。
- デカルトは、私に保存力を着せしめない理由としてその力を経験しないとしているが、以後、この「経験しない」という論法が神にたいしても言われるものかどうか。しかし、デカルトが持ち出すのは、経験ではなく、神の観念の保有でしかない。
(続く)
Copyright (C) 2004 KAMIYAMA, Nobuhiro