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| 常 務 理 事 室 か ら の 花 便 り |
| 第157便 平成23(2011)年 11月 5日 |
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京 都・大 阪、 ア ト ミ 散 歩 |
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Ⅰ. 大阪の同窓会
昨11月4日(金)、「桃李(とうり)の会」関西支部会のお呼ばれで、京都東本願寺の渉成園(しょうせいえん)、一名は枳殻邸(きこくてい)を訪れました。
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「桃李の会」は、昭和25年(1950)から平成19年(2007)まで60年近く女子の教育にあたった、跡見学園の短期大学の卒業生の会です。私は最後の学長を勤めた御縁で、その催しにはしばしばお招きいただいています。
関西支部会は、毎年趣向を凝らして、いろいろなめずらしい所へ御案内くださいます。この「花便り」では、一昨年の飛鳥バス旅行(143便)、去年の大川クルージング(152便)を御紹介しました。今年訪れるのは、京都の人でも知らない人が多いという、市内の隠れた名園です。かく言う私も、初めてです。
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御覧の通り秋晴れ・・・なのですが、11月だというのに気温は25度以上もあって、入道雲の立ちのぼる一日でした。
美女に囲まれている唯一の男性は、アトミの理事長山崎一穎(かずひで)先生。森鷗外研究の第一人者、今は跡見学園の中学・高校の校長先生を兼ねていらっしゃいます。
(私・・・ですか? 私はカメラを構えているので、写ってはいません) |
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渉成園は浄土真宗大谷派、東本願寺の別邸。徳川三代将軍家光に土地を寄進されたところから始まります。幕末、禁門の変(蛤御門の変,1864)で焼け落ち、今見る建物はその後に再建されたもの。
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幾何学的な人工物と自然との取り合わせの妙は、京都のお寺や神社を訪れる醍醐味だけれども、ここはまた のびのびとして、おおらかな造形だなあ。
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とはいえ、随所に個性的な茶室を配置して、変化に富んだ景観を作っていました。
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暖かいこともあり、草木の紅葉は今ひとつですが、実ものがきれい!
クロガネモチと、ウメモドキの実です。
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クロガネモチは、西南日本の暖地の木です。東京ではこんなにみごとな実りを見ることはむずかしい・・・。
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そしてこれは、カラタチの実。ミカンの、遠い親戚です。 |
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食用には向きません。むかしの人々の用途はふたつ。
まず、この固く鋭いトゲを利用して、生垣に用いました。次に果実を、まずくて食えぬその青い実を、枳殻(きこく)と呼んで薬として用いました。
この渉成園を一名「枳殻邸」と呼ぶのも、むかし周囲をカラタチの生垣で囲ったことに因みます。
からたちの花が咲いたよ。
白い、白い、花が咲いたよ。
北原白秋のこの歌も、畑の垣根にさいた花なのでしたね。カラタチの花の姿は、どうぞこちらをクリック。
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アトミの創設者である跡見花蹊は、もと浄土真宗大谷派、つまり東本願寺の門徒でした。跡見一族の菩提寺である木津(きづ)の唯専寺も、一名を木津御坊と呼ばれる大谷派のお寺です。先月お訪ねした天下茶屋の寺田家の菩提寺、勝間(こつま)の長源寺も真宗大谷派です。
跡見花蹊は、ここ渉成園を訪れたことはあったのかしら・・・。それは分りません。
ところで、東京に移ってからの跡見家の菩提寺は小石川の光円寺ですが、ここは浄土宗です。花蹊の養孫であり、アトミの前理事長でいらっしゃる跡見純弘氏も、どうしてこのお寺になったのだろう、と不思議がっておられます。確かに・・・。
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9月に、跡見花蹊の母幾野の実家、天下茶屋の寺田家を訪問し、その結果を前便に報告しました。
倉卒の訪問でしたので、帰京後寺田氏にお手紙を差し上げて、色々なことをお教えいただきました。
それやこれやを基にして、いくつか前説を補っておきます。
ただし、中身は昔の話で、しかも文字ばかりです。お急ぎの方は、どうぞとばして、先にお進みください。
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寺田家の寺田邸の地番は、現在は大阪市西成区岸里東(きしのさとひがし)ですが、1925年以前は大阪府東成郡天王寺村字天下茶屋でした。この天王寺村は、大正14(1925)年解村して大阪市の一部となりましたが、その際『天王寺村誌』を刊行して、往時の天王寺村のようすを記録に残しました。
その中に、村の旧家の一として寺田家について解説されていますので、紹介します。
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寺田氏の家系図のご提供を受けました。現に生活を営んでいらっしゃるご一家の系譜ですから、細かい紹介ははばかります。ここでは、跡見花蹊に関連するいくつかの事柄だけ、紹介します。
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大正14(1925)年6月29日、小石川柳町の跡見花蹊のもとに、この作品を取りに訪れた「天下茶や田中夫婦と悴」(『花蹊日記』)が誰であるのか報告します。
→ ここをクリックしてページを開く
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堺(さかい)は港町です。16世紀には国際的な貿易港として繁栄し、千利休をはじめとする茶の宗匠たちが住むなど、文化都市として名をはせました。幕末に至っても、堺はこの地方の有数の港湾都市であり、豊かな商人の町でした。
跡見花蹊は、母の里天下茶屋からそれほど遠くないこともあり、しばしば堺を訪れたようです。でも、今回のレポートは、文久3年(1862)の堺に焦点を絞ろうと思います。というのは・・・、
この年跡見家を襲った身近な悲劇的事件といえば、5月に主家姉小路公知(あねがこうじきんさと)が暗殺されたこと、8月に天誅組の乱がおきて身内の親戚たちが巻き込まれたこと、の二つでしょう。これらの事件は偶発的なものではなく、尊攘派と公武合体派のせめぎあいの中で、歴史の大きなうねりの一部として起ったものです。
このころの政治上の大きな課題の一つは、摂海(大阪湾)の防衛、より具体的には大坂・兵庫(神戸)・堺の3つの港の防衛でした。その大坂の中之島には跡見花蹊が、堺には花蹊の従兄の吉井見龍(けんりゅう)が住んでいました。
大きく歴史が動いているとき、跡見家の一族は何を考え、どのように行動したのか、自分の足で歩き、この目で見てみたい、というのが、今回の堺訪問の目的です。そんな大げさに言い切ってしまって、だいじょうぶカナ・・・。
具体的には、次の3つの場所を訪れたいと思います。
① 吉井兄弟の末弟 吉井儀三は、長野一郎と改名して天誅組(てんちゅうぐみ)の挙兵に加わりました。天誅組は、文久3(1863)年8月14日京都を発つと船で淀川を下り、そのまま大阪湾に出て、16日堺に上陸しました。 その上陸地点はどこ? そのあと、どこへ行った?
② 長兄 吉井見龍(けんりゅう,見蔵・鶴城)は、そのころ堺に医院を開業していました。跡見花蹊の弟 跡見重威(しげたけ)は、青年時代この吉井見龍のもとに預けられて学問を修業しました。 吉井見龍の家はどこにあった?
③ 同じ年の4月(天誅組が堺に来る4カ月前)、姉小路公知が勅命により摂海(大阪湾)一帯の海上防衛を巡視しました。この時、堺では御台場(砲台)を視察しました。この旅行には、花蹊の父 跡見重敬(しげよし)が御供しており、堺から大阪へは吉井見龍も同行しました。さて、御台場の跡は残っているかしら?
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『堺市史』(1930)には、ちょうど文久3年(1863)の堺の絵図が覆刻添附されていますので利用させて頂き、その港と町の中心部の部分を示します。
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左方、つまり西の部分が港ですね。港の入口は北側に「小波止」、南側に「大波止」(こはと・おおはとと読むのでしょうね)を築き、その内湾部を碇泊所にしていた様子が分ります。小波止にある「遥明台」は、今の言葉でいえば灯台です。小波止の北・大波止の南に、外海に向って「御台場(おだいば)」が築かれています。外国船などが来たら、ここから大砲を撃ってやっつけよう、というわけです。
港から町中へと、堀が掘られています。堀は、大きくぐるりと堺の町を取りまいていて(この図からは外れてしまっていますが)、水運と共に防衛上の役割を果たしていました。
その内、港から東に町なかへ入って行って 突当りまでの短い部分は、「竪川」と呼ばれています。竪川の突当りを左に折れたところに「吾妻橋」があります。ここを起点として右に伸びている広い通り、これが堺のメイン・ストリート、大小路(おおしょうじ)です。大小路は堺の町を東西に横切っていて、町を出てさらに東へ向かうと西高野街道、吉井家のあった河内長野までは直線距離で16km強です。
画面右手に、大小路と直角に交わる、まっすぐ南北に走る広い道があります。この道は紀州街道、堺では大道(だいどう)と呼ばれています。大阪の今宮から住吉大社にむかう住吉街道の延長線で、堺を経て紀州和歌山に至ります。ということは・・・、この道を上(北)の方へ行くと、住吉大社を経て天下茶屋に至り、さらに行くと木津の隣村、今宮村に至ります。天下茶屋の寺田家までは約6km半、木津の唯専寺までは9km弱ほどの距離です。
大小路を境として町名の表示が逆向きになっていますね。それは、この道を境としてこれより北(北荘)は摂津国住吉郡に属し、南(南荘)は和泉国大鳥郡に属したからです。つまり「堺」の町は、国境(くにざかい)の町なのですね。
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さて、訪問の目的地を探しましょう。
文久3年8月16日に天誅組が上陸した地点は、旭橋の東岸だといいます(『堺市史』)。上の堺絵図を検すると、港から竪川に入るとすぐ右手に「旭バシ」が見えます。
吉井見龍の堺における所在地について、『天誅組河内勢の研究』が収録する「天誅組雑録抄」(富田林市浦田良蔵氏蔵)の一部に、
泉州堺中浜市之町 吉井見龍
とあります。そこで上の絵図中に「中浜」「市之町」を探すと・・・、大小路と大道の交差点から西二筋目が「市丁中浜」ですね。
その4月に姉小路公知と跡見重敬らが視察したのは、「御台場」施設のはずです。
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それでは、いよいよ現代の堺に行ってみましょう。
なお、小生は堺を訪れるのは初めてですので、町の探訪には地図が頼りです。駅で頂いた「堺 まちあるきマップ」(堺市観光部)を、ここでも利用させていただきます。
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→ クリックして拡大
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1863絵図よりも広いエリアを示しました。
港の外側に広大な埋立地がつくられ、南海線・阪堺線の二つの電鉄や高速自動車道路の敷設などによって町の姿は大きく変わっていますが、港の内海や竪川、大小路や大道は、おおむね昔の形を保っているようです。かれこれ対照する時の目安にしてください。
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やはり先ずは港を見てみたくて、北波止緑地を訪れました。

「まちあるきマップ」の、龍女神像(乙姫さま)の立つ突先です。
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真北を眺めました。波止の懐うちの、港の部分です。
今は、ヨットやクルーザーが繋がれていますが・・・、
今から500年ほど昔、ここは遣明船や長崎船でにぎわっていたのだ!
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東南方向を眺めています。写真にすると広々として見えますが、実際はそれほど広くはありません。まさしくヨット・ハーバーという印象です。
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波止(昔の小波止)に降りて、少し歩きました。
西の方、海の方向を望んでいます。左側には南の波止(昔の大波止)が見えます。そしてその先には大阪湾の広い海が開けています・・・、いや、開けていたはず、そして正面には兵庫の摩耶山が見えていたはず、です。今は、浅瀬が広く埋立てられていて、この辺りは大きな工業地帯です。
今 立っている場所のちょっと先の右上、高速道路の手前の辺りに、かつて遥明台(灯台)と御台場がありました。そこには・・・、
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今は、こんな緑地があるだけで、海も見えません。かつてはここに、水路に向っては灯台を設け、外海に向けては大砲をしつらえていたわけです。その次第は・・・、
1854年9月、ということは アメリカのペリーが軍艦4隻(いわゆる黒船)を率いて神奈川沖に現れた、その翌年ですが、ロシアのプチャーチンが軍艦ディアナ号に乗ってやってきて、17日には大阪湾の奥深く天保山沖に停泊し、伝馬船で安治川口に乗り入れるなどのことがありました。やがて幕府との交渉の場所が下田と定められたため、10月3日ディアナ号は大阪湾から姿を消しましたが、この事件を機に大阪湾周辺の海上警備は一段と厳重さを増し、各地に砲台(御台場)が築かれました。ここ堺の台場も、およそ安政年間(1854-1860)に築かれたもののようです(『堺市史』)。
これは、1855の図面です(現地の案内板より)。灯台が見えます。でも、砲台はまだ小さいですね。
次に紹介するのは、『堺市史』に掲載されている「元治元年(1864)堺浦海岸砲台築造図絵」。北台場拡大改築のための設計図でしょうか。台場内の広さ7,742坪と書かれていますから、現状よりかなり大きい。
現地案内板(堺市教育委員会)によれば、北台場の規模は南北約90m、東西最大約70m、高さ約3mのコの字型の土塁を築き、そこに135kgの臼砲(きゅうほう)を主砲として大砲8門を備えた「本格的なもの」だったといいます(軍事的にどの程度有効であったのかは、私には評価できませんが)。
さて、文久3(1863)年の4月、姉小路公知は勅命により摂海(大阪湾)周辺各地の海防を視察してまわりました。ところが、別途に将軍徳川家茂(いえもち)も、ほとんど同時に同じ地域を視察して回っています。桂小五郎(後の木戸孝允)によると、「大樹公(将軍徳川家茂)下坂(京都から大坂に「下る」) 攝海御見分(ごけんぶん)に付、姉小路卿 勅使として御下坂被爲成候、云々」といいます(『木戸孝允文書』)から、そもそも将軍の巡視計画の方が先にあって、朝廷側が草々に対応した結果が姉小路公知の視察旅行であったのでしょう。幕府の軍艦奉行であった勝海舟は、両方の案内を命じられて、ここぞとばかり頑張りました。
その日程・時程を整理してみましょう。『続徳川実記』『勝海舟日記』『跡見花蹊日記』『姉小路公知伝』『堺市史』などを参照しました。
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4月21日
将軍徳川家茂、早朝京都を発ち、途中石清水八幡宮へ参詣しつつ船で大阪へ向い、21:00頃大阪城に入る。
幕府軍艦奉行 勝海舟は、午後大阪城に登り諸準備。夜に入り京橋口船着場に将軍を御迎え、将軍に従って城に入り、深夜退出。
4月22日
京都の朝廷より大阪城へ、明23日姉小路公知が勅使として大阪に下るむね通知が来る。
京都の姉小路家より大阪中之島の跡見花蹊宅へ急使が到り、明23日姉小路公知が勅使として大阪に下るにつき、跡見重敬を供とするためにこれを呼ぶ。
大阪城では、夜、将軍の明23日兵庫西宮辺視察のことが決まり、勝海舟に軍艦順動丸の準備を命じる。
4月23日
将軍、7:00頃、大阪城を発ち、堂島川の樋之上町の御船場(鍋島藩蔵屋敷前の浜)から乗船、大阪湾に出て軍艦順動丸に移乗、兵庫に向う。(視察模様は略)。夕方大阪沖に還り、19:00過ぎ天保山附近に上陸、徒歩で大阪城に向い、1:00頃帰城。
勝海舟は、払暁堂島川の乗船場へ行き、一日将軍に随行し、深夜 城を退出。
勅使姉小路公知、京都を発ち、夜船で大阪に向う。跡見重敬、随行する。
4月24日
勅使姉小路、4:00頃、鍋島の浜に着き、宿泊場所西御堂(今の北御堂)に入る。
朝、跡見重敬、暫時中之島の自宅に帰る。
勅使、夕方近く、大阪城に登る。跡見花蹊と母幾野、西御堂を訪れ、姉小路登城の様子を見物。花蹊の弟 跡見愛四郎、勅使のお供して大阪城に登城。
20:00頃、将軍と勅使、大阪城白書院にて対面。
22:00頃、跡見愛四郎、中之島の花蹊宅に帰る。
夜、大阪城から勝海舟に対し、明25日朝 摂海の図を持って勅使姉小路を訪ね、順動丸にて兵庫を案内するよう指示が来る。
4月25日
早朝、辻家の人々、勅使出立見物のため、中之島の跡見花蹊宅に来る。
朝、勝海舟、西御堂に勅使姉小路を訪ねる。勅使、海防について問い、勝、その現状と問題点を説明。
昼過ぎ、勅使と勝、鍋島の浜にて乗船、天保山沖で順動丸に移乗、兵庫に向う。姉小路は、兵庫にて一泊。
4月26日
朝、姉小路は摩耶山に登る。
午後、姉小路、勝の順動丸に乗船、紀淡海峡に行く予定であったが、天候不順にて直ちに大阪に帰る。
辻家の人々、勅使到着見物のため、中之島の跡見花蹊宅に来る。
夕刻、勅使、鍋島の浜に着き、御輿にて大江橋を渡り、20:00頃西御堂に向う。
4月27日
昼過ぎ、勅使姉小路、西御堂から陸路 天王寺・住吉を経て堺に向う。堺に至り、砲台に登り、試みに大小銃を撃たせようとしたが、準備不十分で撃てず、勅使はこれを戒める。この夜、堺に一泊。
4月28日
払暁、勝海舟、順動丸を堺に廻す。
5:00頃、将軍、大阪城を発ち、堺に向う。大手門にて馬に乗り、天王寺を通って天下茶屋(芽木家でしょう)で小休止、そこから駕籠に乗り、堺奉行の役宅に入って昼飯。砲台に至り、打方を試す。
14:00頃、将軍、堺沖にて順動丸に乗り、泉州沖を南下して友ケ島まで行き、紀淡海峡周辺を視察。夜に入り、船を引き戻して大川浦に碇泊。
この日、勅使姉小路、長崎廻りの商人船にて、堺から加田浦に到る。
4月29日
7:00頃、将軍、順動丸で出航し、加田浦に入り、上陸。午後、将軍、再び乗船、天候不順につき、勝海舟の意見を容れ、直ちに大坂に帰る。16:00前、天保山に着き、ここから上陸、陸路にて21:00頃大阪城に帰る。
勅使姉小路、船で紀州より大坂に帰り、夕刻日暮れ後、鍋島の浜に着く。
堺の吉井見龍、勅使の一行の供をして大阪に至り、中之島の跡見花蹊宅に泊る。
5月1日
朝、勝海舟、西御堂に行き、勅使姉小路と面会。
昼後、跡見花蹊、西御堂に行き、姉小路に御目見え。
勅使、午後大阪城に登り、14:00頃、将軍と勅使、黒書院にて対面。
夕暮れ後、勅使、鍋島の浜で船に乗り、京都へ帰る。
5月2日
姉小路公知、京都に帰り着き、直ちに参内して、孝明天皇に視察の結果を報告。
10:00頃、吉井見龍、中之島の跡見花蹊宅を辞し、堺へ帰る。
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少し、トピックを整理しましょう。
4月22日、突如の指示が舞い込んだ大坂城と跡見家、どちらもてんてこ舞いですね。跡見重敬はたまたま中城(姉小路家の家人 中條右京でしょうか)へ行って留守、使はその足で中城へ呼びに行きました(翌日の出発には間にあっています)。
大阪においては、将軍の活動拠点は大阪城、姉小路公知の宿舎は西御堂(今の北御堂)。大阪湾に船出するのに、二人とも堂島川の鍋島の浜から乗船しています。もちろん順動丸(外輪の蒸気船です)のような大きな軍艦は川には入れませんから、二人とも(将軍は23日,姉小路は25日)鍋島の浜から小型の船に乗って川を下り、順次大きい船に乗り換えて、天保山沖で軍艦に乗り移りました。
跡見花蹊の宅は、鍋島の浜の筋向い、堂島川の対岸、中之島(のうち,今の中之島図書館あたり)の北岸にありました。花蹊の家からは、鍋島の浜に船を乗り降りする人々や、大江橋を渡る通行人の姿が、よく見えていたのです。この辺りの地理的関係は昨年御紹介しました。
25日と26日、勅使姉小路公知一行の乗船と下船は、物見の人が出るほどのイベントだったのですね。跡見花蹊の家に押しかけてきてこれを見物した辻家の人々とは何者かというと、跡見花蹊と家族ぐるみで交際し、支援してくれた、仲良しの一家です。わいわいがやがやと、にぎやかそうです。
上の日程表では「勅使姉小路は」としか記しませんでしたが、その一行は(朝廷の勅使なのですから)、跡見重敬ほか多くの供の者を引き連れた行列であったはずです。再び桂小五郎によると、勅使として姉小路が大坂に下ることになったとき「御當家(長州藩)幷土・肥三藩より警衞として七人宛差出候樣 三條(實美)卿より御達有之候」とあり、土佐藩の岩神主一郎・橋本鉄猪(後の大橋慎三)、長州の志道(しじ)聞多(後の井上馨)・清水清太郎・湯川庄蔵・佐世八十郎(後の前原一誠)・福原乙之進らが参加していました(前掲書,pp.321-325)。
別の記録によると、24日西御堂に入った姉小路は「長藩の佐々木男也、淸水淸太郎、桂小五郎、肥後の山田十郎信道、紀州の伊達五郎(宗興)等、其他有志浪徒七十餘人」を随えていました(『姉小路公知伝』)。そして25日に勝海舟の順動丸に乗り込んだのは、姉小路のほか「従属百二十余人」でした(『勝海舟日記』)。一見の価値のある行列であったのでしょう。
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それにしても、将軍というのは激職ですね。
そして、ここに登場する人々は、みな若い! このとき、
姉小路公知 24歳、
将軍徳川家茂 17歳、2月に同い年の和宮と結婚したばかり。
孝明天皇 32歳、
勝海舟 40歳、
桂小五郎 30歳、井上馨 29歳、
跡見花蹊 23歳、弟 跡見愛四郎は13歳、
吉井見龍 28歳、
いずれも国を憂い、この国を何とかしなければと頑張っていた人々です。その熱意と活力に、頭が下ります。
年長であった勝海舟は、初対面の姉小路公知に 海軍創設の必要を熱心に説きました。姉小路はその長い話をきちんと聞き、内容について一定の理解をしたようです。また25日、姉小路にくっついて順動丸に乗り込んできた「従属百二十余人」にも勝は国防について議論を挑み、「大抵同意の旨なり。あゝ、我邦家の御為に此説を主張するもの殆ど七八年、終に今日に到り纔かに延ぶる処あるがごとし。然れども天下の形勢切迫、国財滅耗、如何ともなすべからず。歎ずべし、その議を実事に行うに暇なきことを」と嘆いています(『勝海舟日記』)。
こののち5月21日、姉小路公知暗殺の報に接した勝は、日記に次のように記しました、「小子輩、この卿に附きて、海軍興起より護国の愚策 奏聞を経て、既に御沙汰に及びしもの少なからざりしに、実に国家の大禍を致せり。歎息、愁傷に堪えず」と(同上)。姉小路公知と勝海舟は、お互いによき理解者、協力者となりつつあったのですね。
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北波止(昔の小波止)に立って、南波止(同じく大波止)を望んでいます。向うの森は大浜公園。あのあたりに、かつて南の御台場がありました。
姉小路公知は、勝海舟から海防について説明を受け、これらの現場を見て、それまでの単純な尊王攘夷論から、多少なりとも現実主義へと考えを転換しました。それから一月もしないうちに、姉小路は刺客に暗殺されてしまいます。犯人や理由について諸説紛々として定説を見ませんが、姉小路と勝の接近が遠因であることは間違いのないところでしょう。彼らの「志」とは、文字通り「命」をかけたものだった・・・、そして瀕死の姉小路の最期をみとったのは、花蹊の弟、跡見重威でした。
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北波止緑地から、竪川の河口を見たところです。今は、大きな水門が作られています。高潮の侵入を防ぐためでしょうね。
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これは、水門の内側、海岸通に架かる竪川橋から東(上流)を向いたところ。
川の上に作られた大きな建造物は、南海線堺駅のホームです。
さて、文久3年8月16日、吉井儀三(長野一郎)ら天誅組の一行は海から堺港に入り、旭橋の東岸に上陸したのでした。それは どこ?
1862年の絵図と、今日の町歩きマップをかれこれ対照してみると、それは南海電車堺駅少し手前の、向って右側の岸、ですね。昔の面影は何も残っていないけれども。
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今度は反対側、堺駅の東側にある勇橋から西を見ています。下は堅川、上にかかっているのは南海線の駅のホーム。
天誅組は、こちらから見れば、駅の少し向うで、左岸に上陸して、左岸に沿ってここまで歩いてきたはず・・・。
それにしても、風情の無い景色だなあ、堺の人々には申し訳ない言い草だけれども・・・。
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吾妻橋は、今は駅前広場の一部です。そして・・・、
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吾妻橋から東に延びる大小路。まっすぐ行って、町を外れた先は西高野街道。天誅組の一隊は、この大小路から西高野街道を通って、河内甲田(こうだ)村の水郡(にごり)家へと向ったはずです。いくさ仕度はそこで整える手筈でした。一行38名、ここを通った時、かれらはどのような姿恰好をして歩いて行ったのだろう?
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河内長野の吉井三兄弟の長兄 吉井見龍は、長野の家を末弟 吉井儀三に任せて、自らは堺に出て「市之町中浜」に家を構え、医を業としていました。もう一度、1862年の堺絵図で確かめておきましょう。
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堺は、正確な都市計画に沿って作られた、人工的な町です。『堺市史』に導かれながら、昔の堺を眺めてみましょう。
町の設計の基軸は、東西に走る大小路(おおしょうじ)と、南北に走る大道(だいどう)です。大小路は道幅5間(9m)、大道は4間半(8.1m)、その交差点は清明辻。これらに並行して東西の横筋、南北の縦筋を作り、横筋は幅3間(5.4m)、縦筋には二種類あって、大道から東西に奇数番目の筋は裏筋で 幅2間(3.6m)、偶数番目の筋は表筋で 幅は3間(5.4m)でした。
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市之町中浜は、堺の中心街の一部ですね。今の東京になぞらえて言えば、清明辻は銀座4丁目交差点、市之町中浜は並木通り、という感じでしょうか。
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これらの道筋に区切りとられる短冊形の町の大きさは、南北の長さは1町(60間,108m)ですが、東西幅は不定で、市之町の西側の場合、大道筋と西六軒筋の間は21間(37.8m)、その西 大浜筋までの町々は幅16間(28.8m)でした。
道筋に面して入口を持つ家(店)の奥行については、古い時代には表筋からは10間(18m)、裏筋からは6間(10.8m)でした。幕末にはずいぶん乱れて複雑化していたといいますが。これらの家々の間口の広さについては知りえませんでしたが、1799年当時の記録によると、市之町中浜には家が19軒あったのだそうです。市之町中浜筋は長さ108mですから、間口分には両側あわせて216m、これを19軒で分け合っていたわけですから、平均すれば1軒当り11.4m程になります。これに奥行をかければ敷地面積が出ますが、計算すると205㎡、62坪強ということになります。いくつもの仮定に立った数字ですから、吉井見龍の医院がどうであったかというとそれは分らないのですが、当時の市之町中浜のおおよそのイメージを得る助けにはなるでしょう。
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さて、それでは、現地へ行ってみましょう。
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ここが大小路と大道の交わる、今の「大小路」交差点、昔の清明辻。
大小路筋に立って、西から東を向いています。天誅組の一行は、ここをまっすぐに歩いて行ったのだ・・・。
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南北に走る大道には、中央に阪堺線路面電車の軌道が敷設されています。
いやあ、広い道だなあ。
幕末には幅8m程しかなかった大道筋がこんなに広いのでは、
町並みは相当に変ってしまっている・・・?
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「大小路」交差点から、西方向を振り返りました。 |

西南の角に立つのは、堺警察署。
中浜筋は、大道筋から2つ西の縦筋のはずですが、・・・
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あれこれの地図を引き合わせてみたり、現地にお住まいの方にお聞きしたりして、得た結論は・・・、
かつての紀州街道は、今の大道筋の東側の歩道(右の写真)のあたりにありました。明治以降 路面電車を敷設するなど、道幅を広げるのにあたって、大道筋から西六軒筋までの町を取り壊して、今の大道を作りました。
したがって、昔の西六軒筋は 今は大道筋の西側の歩道の下、中浜は今の「大小路」交差点から一筋西の筋、つまり警察署の裏の道・・・、
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ここです。今の姿は、何の変哲もない裏通り、ですね。
でも、江戸時代にはこの辺りは堺の町の中心部だったのでした。商店が立ち並び、その一角に、吉井見龍の医院があった・・・。
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吉井見龍がいつ堺に出てきたのか、それはよく分りません。前号で記したとおり、安政3年(1856)には見龍はまだ長野村にいました。しかし『花蹊日記』によれば、文久元年(1861)には既に堺に居り、跡見家の人々との間にはかなり頻繁な往来がありました。
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文久3年(1863)4月27日、勅使姉小路公知の供の者としてやってきて堺に一泊した跡見重敬は、間違いなく吉井見龍と会ったことでしょう。そしてこれも間違いなく、重敬は見龍を姉小路に引き合わせたのでしょう。そうでなければ、この先一泊二日の旅程に見龍が同行し、姉小路と同じ船で大阪にやってくるはずがありません。
姉小路と吉井見龍は、何を語り合って意気投合したのだろう。そして大坂に着いた29日から二晩、中之島の花蹊の家に泊った見龍は、花蹊とは何を話したのだろう。見龍の弟 吉井儀三が花蹊の家にやってきて一晩語り合ってから、11日後の事です。
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それから4ヵ月がたった8月16日、今度は天誅組の一行が堺に来、西高野街道(大小路)を東方の河内へと行軍してゆきました。その中に、吉井儀三が長野一郎と変名して、加わっていたわけです。
小生、堺に来て、この目で見てあらためて気づかされたことですが、吉井儀三たちが行軍していった大小路は、吉井見龍が開業していた医院の、文字通り目と鼻の先、です。
見龍は、弟が勤王討幕の兵を挙げたことを知らなかったのだろうか? 儀三は、どこかの段階で兄に連絡を取らなかったのだろうか? 兄は大小路まで出て、弟の進軍を見送らなかったのだろうか? いずれも、そんなことはありえなかろう、というのが、『花蹊日記』から読み取られる 当時の人々の濃密な人間関係から導かれた、小生の推測です、ただし 証拠はありません。
証拠はありませんが、天誅組のこと敗れたのち、9月2日幕府方に拘引された吉井見龍が 取調べ先で直ちに自殺したのはなぜか、と考えれば、それは当然、事前に事を知っていたからだ、と推測して差し支えないように思われます。このころにはまだ儀三は捕まっていなかったのですから、見龍は家族・親族に不利になる情報を、命と引換えに闇に封じ込めたのではないでしょうか。もしそうであるとすると・・・、
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『花蹊日記』9月5日の条に「父さまよりの文、やはり事発(おこ)ル故、何も何も用意致(いたす)様申参り候」とある一文について、先号で「父重敬の指示は、跡見一族もいつ取調べを受けてもよいように、身の回りの整理と心の内の覚悟をせよということでしょう」と記しましたが、その前提として、跡見一家が吉井兄弟の動向や勤王の挙兵に 事前から何らかの関わりを持っていたことを推測してよいのでしょうし、「心の内の覚悟」と記しましたが、万一にはそれは命にもかかわる覚悟であったことが推し測られるわけです。
若き跡見花蹊は、自らの政治上の考えを日記に文字で書き記すことはめったにありませんでした。私たち後輩は、その秘めた思いを行間から読み取ってゆくしかありません。今回、文久3年の堺と吉井兄弟に焦点を絞って、その努力を試みました。果して肯綮にあたっていれば幸いですが、如何。
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参考書:
『角川日本地名大辞典 27 大坂府』(1983、角川書店)
『堺市史』(1930)
『続徳川実紀』
『跡見花蹊日記』(2005-2007、跡見学園)
『勝海舟全集 18〔海舟日記Ⅰ〕』(1972、勁草書房)
『木戸孝允文書 一』(日本史蹟協会叢書、1929)
関博直『姉小路公知伝』(1905、博文館)
郷土先賢顕彰会『天忠組河内勢』(1937、大阪府社会教育課)
水郡康晧『天誅組河内勢の研究』(1966、天誅組河内勢顕彰会)
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