跡見学園女子大学 *** 柳上書屋 *** Students' Top *** 中国絵画史辞典

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ごは  呉派  Wu pai

 明代の山水画の一流派。
 蘇州(江蘇省蘇州。古名は呉)に興ったので呉派という。沈周(1427-1509)を祖とし、その門下の文徴明(1470-1559)が多くの弟子を育て上げるに至って画壇の一角を占めた。

 沈周は父・沈恒(1409-1477)と郷里の先人・杜瓊(1396-1474)に師事し、文徴明は沈周に師事したが、ともに元末四大家を研究して表現の幅を広げた。ことに文徴明は、さらに南宋院体山水画を摂取して色彩法に優れ、倪瓉{ゲイサン}(1301-1374)の「蕭散体」を学び取って、独自の抒情的な様式を嘉靖(1522-1566)期に打ち立てた。
 文徴明の門下には、子の文彭(1498-1573)文嘉(1499-1582)、甥の文伯仁(1502-1575)のほか、弟子の陳淳(1484-1544)・王穀祥(1501-1568)・陸治(1496-1576)・銭穀らが輩出し、呉派の絶頂期を現出した。

 なお、この一派を一つの優れた流派として世に送り出すに当っては、評論家・何良俊(1506-1573)の力が預かっていた。
 文徴明の同時期の蘇州では周臣唐寅(1470-1523)仇英らが活動している。旧来、その画系と身分とから、浙派から呉派へ移行する中間的な存在として「院派」と呼ばれてきたが、文徴明一門の画家たちと密接な交流があり、蘇州画壇として一括して扱うことが適切である。同時代の謝時臣(1487-after1557)・張霊(夢晋)についても、同様の事情がある。
「院派」の名は、日本における命名。唐寅・仇英が画を師事した周臣の画系をたどると、南宋画院画家である陳珏{チンカク}にたどり着くというので、「院派」という。

 呉派は、明末には松江(上海市松江)にその中心地を移した。これを松江派と呼ぶ。
 中心地の蘇州から松江への移行は、都市間の勢力の盛衰、蘇州における造形が漸く示しだしたマンネリズム化、松江出身の董其昌(1555-1636)の天才的な絵画革新などが複合的に作用した結果である。
 董其昌は、蘇軾(1036-1101)「士人の画」観、何良俊の「行利家論」などを集大成して、「南北宗論(南宗画論)」「文人画論」を唱え、他の流派に対する呉派の絶対的優位を理論付けた。

 明末以後の呉派は、次に掲げるような諸流派に分かれた。
  正統派  いわゆる四王呉惲
   虞山派  四王のうち、王翬{オウキ}に発する流派。
   婁東派  四王のうち、王原祁に発する流派。
  蘇松派  趙左に発する流派。
  華亭派  顧正誼に発する流派。
  雲間派  沈士充に発する流派。
しかしいずれの流派も伝統を墨守してやがて創造力を失い、新興の個性的な画家たちに活躍の道を譲った。

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