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がいん 画院 huayuan
宋(960-1279)代の宮廷に所属した国立のアトリエ。正式名称は翰林図画院{カンリントガイン}、画院はその略称。
歴代の王朝には、宮廷または政府に所属する絵画制作機関が置かれていたが、なかでも唐(618-907)代の翰林院に起源し宋代に至るものを画院と言う。ただし画院の語は、のちの明(1368-1644)・清(1644-1911)の宮廷アトリエの通称としても用いられた。
〔宋代の画院〕
北宋初には、都(河南省開封市)の内侍省(今日の日本の宮内庁のようなもの。ただし宦官が監掌した)管轄下の翰林院(宣祐門内東廊にあった)の中に画待詔{ガタイショウ}・芸学等がいたが、984(雍煕元)年翰林院から翰林図画院として独立して内中苑東門裏に移り、998(咸平元)年右掖門外に移されるとともに職位ごとに待詔{タイショウ}三人・芸学六人・祇候{シコウ}四人・学生四十人の定員が定められた。
1073(煕寧6)年翰林図画院は政府機関である三司の下部機構である提挙在京諸司庫務司の管轄下に移されたが、1082(元豊5)年以後には名を翰林図画局と改められて再び翰林本院に復属した。
画院に所属する画家たちは、いわば国家公務員であるから、官人としての何らかの身分を持ち、俸禄を支給されるはずである。しかし画家たちは、事務職であるわけではなく、書家・医者などと同様に技術職であるという理由で、一般の官僚とは厳しく区別された。
ことに北宋中期以降(具体的には1028以降)は、正式の官位を与えられる場合でも、下級の武官位に限られた。したがってその俸禄も、官人としては最下級のものに過ぎなかった。
画院に所属する宮廷画家の仕事は、多岐多様にわたる。まず皇帝一族や勲臣・歴代の有名人の肖像画の制作が挙げられる。特殊な例では、敵国にひそかに派遣されてその指導者の肖像を盗み画かされた(のちの首実検のため)例や、敵国に至る道路事情や地勢を画かされた(軍事行動用に)例もある。また国家が建設する建造物の内外の装飾、勧戒等の目的を以て国家が製作する頒布物の挿絵の制作などもある。
従って、今日の意味で言う芸術作品としての鑑賞用絵画(巻軸冊など)の制作がどの程度を占めていたかはよくは分からない。
画院に独特の絵画様式を、「院体」という。趙升の『朝野類要』(1236)に、
「院体 唐以来翰林院諸色、皆な有り。後ち遂に之に效う。即ち宮様の謂なり。云々」
とあるのによる。
北宋初、黄筌(?-965)・黄居ァ(933-after976)が主導する花鳥画様式が画院に流行し、これが「院体」と呼ばれたのが、このことばの初見である(『宣和画譜』呉元瑜)。これに対して、山水画などのジャンルでは「院体」と呼びえるような画院に独自の統一された様式は、まだ北宋時代には成立していなかった。
北宋第八代皇帝・徽宗(1082-1135、在位1100-1125)は、自ら画家でもあったので、当時の画院の水準に満足せず、画学(国立絵画学校)を創設したり、自ら画院に出向いて親しく画院画家たちを指導したり、その待遇を可能な範囲で改善したりして、宮廷絵画の水準を上げることを試みた。その試みは、なかば成功しつつあったが、北方の金(1115-1234)による北宋滅亡(靖康の変,1127)により潰えた。
しかし、徽宗画院における薫陶を受けた画家・李唐などの努力により、その新しい風は南宋の画院に受け継がれた。
南宋時代の画院は、おそらく紹興(1131-1162)の終わり近いころ、仮の都と定められた臨安(浙江省杭州市)に復興されたものと思われる。ただしその正確な年代・組織・変遷など、実態は不明なことが多い。
近年の中国の研究者は、南宋画院の所在地を、今日の杭州市望江門内、五柳巷と板児巷から遠くないところと考えている(『南宋京城杭州 杭州歴史叢編之四 (修訂版)』浙江人民出版社、1997)。
南宋時代の画院では、李唐・馬遠・夏珪・劉松年(これを南宋画院の四大家と呼ぶ)をはじめ、閻次平・李安忠・梁楷・李迪・馬麟ら多くの画家たちが活躍した。その活動は主として鑑賞用絵画の制作に移り、山水画・花鳥画・人物画などさまざまなジャンルにおいて、際立って質の高い達成を成し遂げた。この南宋時代の画院に独自の洗練された絵画様式を、特に取り上げて「院体」と言う場合が多い。
彼らが制作した院体画の一部の優品は、鎌倉時代から室町時代にかけて日本に請来され、雪舟や狩野派など、室町時代から安土桃山時代にかけて隆盛した日本の漢画に、多大の影響を与えている。
〔元以降の宮廷絵画制作機関の概況〕
元(1271-1368)時代は、国立のアトリエを置かなかった。
明(1368-1644)時代に入ると、永楽(1403-1424)年間ころから都(今日のペキン)に国立のアトリエが置かれ、宮廷画家たちが盛んに活動した。その組織の正式名称は知られていないが、便宜的に、これも画院と称する。
明の画院の画家たちは、身分としては錦衣衛の諸官(百戸・千戸・鎮撫・指揮僉事・指揮同知・指揮使など)を拝せられ、武英殿・仁智殿(今日まで北京に遺る紫禁城の宮殿)などに直して絵画制作に当たった。
錦衣衛とは、日本風に言えば近衛兵の詰め所であり、スパイ機能も持った憲兵隊のような恐ろしい側面を持っていた組織である。しかし画家たちがそのような活動をしたわけではなく、そのような名目で俸禄が支給されたものである。すなわち、宋代の伝統を踏まえて、明代も宮廷画家たちには武官位を与えたわけである。
明の画院が画壇に卓越した活動を示したのは、明の前半期であり、浙派がその中核をなした。後半期には、蘇州や上海などの商業都市の経済力を背景とした文人画家による「呉派」が、画壇を席捲した。
しかし、清に入ると、呉派の画家たちそのものが宮廷画家となって、「正統派」を形成した。
【参考】
〔宋代の画院について〕
鈴木敬「画学を中心とした徽宗画院の改革と院体山水画様式の成立」
(『東京大学東洋文化研究所紀要』38,1965)
嶋田英誠「徽宗朝の画学について」(『鈴木敬先生還暦記念中国絵画史論集』吉川弘文館、1981)
〔明代の画院制について〕
鈴木敬「明の画院制について」(『美術史』60、1966)
〔清代の画院制について〕
古原宏伸「乾隆皇帝の画学について」(『国華』1079・1081・1084)
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