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とうきしょう 董其昌 Dong Qichang

    明・嘉靖34(1555)年 1月19日-崇禎 9(1636)年11月11日

 明末の文人、書家、画家。
 字は玄宰、号は思白・思翁・香光、室名は画禅室・戯鴻堂など、華亭(上海市松江)の人。

 同郷の莫如忠(1509-1589)に教育を受け、13歳で府学の学生。17歳で書を、22歳で画を学んだとのちに自らいう。
 万暦17(1589)年35歳で第二甲第一名をもって進士登第、翰林院庶吉士となる。同22(1594)年皇長子(後の光宗)の講官、同23(1595)年会試の同考官、同24(1596)年持節して長沙(湖南省)の吉藩に使し、同25(1597)年には江西の郷試の主考。この後、事に坐し出でて湖広(湖北・湖南両省)副使となるも、病と称して帰郷。しばらくして湖広副使に復帰、湖広の学政を督たが、請囑に徇わなかったため、勢家に怨まれ、ついに学生数百人にその公署を毀たれ、ついに謝事して郷里に帰った。董其昌のこのような一面は、その華亭の家を焼かれた「董氏の奴変」(1619)にも見られる。
 光宗(泰昌帝、在位1620.8-1620.9)は、即位するや嘗ての講官 董其昌の所在を探させた。天啓元(1621)年太常少卿、翌 2(1622)年兼ねて国子監司業事を掌どり、翰林院侍読学士となって『神宗(万暦帝、在位1572-1619)実録』を纂修。翌 3(1623)年秋、礼部右侍郎・協理詹事府事に擢んでられ、継いで左侍郎。同 5(1625)年南京礼部尚書を拜せられたが、折からの酷烈な党禍をみて翌 6(1626)年辞任し、帰郷。崇禎 4(1631)年故官に復し詹事府の事を掌る。しばしば帰休を乞い、同 8(1635)年、太子太保を加えられて致仕。
 福王(在位1644.5-1645.5)の時、文敏と諡された。
 その著として、別集『容台集』のほか、書画関係の記事を集めた『画禅室随筆』がある。

 書は初め米芾{ベイフツ}(1051-1107)を宗とし、のち王羲之(321-379)をしたって一家を為した。順天(北京)の米万鍾(1570-1628)と「南董北米」と並び称され、また邢侗{ケイトウ}(1551-1612)・張瑞図(1570-1641)を併せて「邢張米董{ケイチョウベイトウ}」と並び称えられた。「項元汴(1525-1590)墓誌銘稿」「日月詩巻」をはじめ多くの書蹟が伝存し、収蔵・経眼した書画への題跋の現存するものも数多い。
 鑑識・収蔵した法書を集めて『戯鴻堂法帖』(1603)を刻している。ただし、その評価は必ずしも高くはない。

  画は、自ら呉派の正統的な後継者を自認し、元末四大家ことに黄公望(1269-1354)を研究し、董源(?-962)に遡り、さらに宋元の諸家を研究した。
 現存する初期の作品「婉孌{エンレン}草堂図」軸(1597、米国・個人蔵)では、抽象的な墨色対比を用いてきわめて表現主義的な造形を行っている。のちの「荊谿招隠図」巻(1613、米国・個人蔵)・「青弁山図」軸(1617、クリーブランド美術館蔵)は、董其昌の代表作であり、画面の整斉と表現主義的な造形を調和させて、モニュメンタルな山水表現に達している。
 その伝称作品は数多いが、すでに生前から偽作が横行し、しかも偽作者の姓名まで伝えられており、真作は一部に限られよう。

 なお、「芸苑百世の宗師」として、次の世代に与えた影響はきわめて大きい。
 王時敏(1592-1680)・王鑑(1598-1677)・趙左・沈子充など、董其昌に学びあるいはこれに影響を受けた画家は数多く、明末清初の多くの個性的な画家たちもまた清初の四王呉惲ら正統派の画風も、みなその影響を受けている。

 絵画評論家としての董其昌の所論は、これも後世に絶大の影響を与えた。董其昌の識した題跋類は、早くから『画旨』(『容台別集』所収)・『画禅室随筆』(楊無補編)・『画眼』等に纏められてきた(三書の内容は多く重複する)。それらの中で、董其昌は何良俊(1506-1573)や同郷の友人・莫是龍{バクシリョウ}(?-1587)の影響を受けつつ、後世に多大の影響をもたらした「南北宗論」と「文人画論」を提唱した。

 南北宗論とは、「禅宗に南北二宗があるが、これらは唐(618-907)の時代に初めて分れた。絵画の南北二宗も唐代に分れたのである。ただし、その画家の生まれが南か北かによっているわけではない。北宗{ホクシュウ}とは、則ち李思訓(653-718)・李昭道父子の着色山水であり、流伝して宋{ソウ}(960-1279)の趙幹・趙伯駒・趙伯驌{チョウハクシュク}(1124-1182)から(南宋{ナンソウ}(1127-1279)の画院画家である)馬遠夏珪の連中に至る。南宗{ナンシュウ}は、則ち王維(699-759/701-761)が水墨の渲淡の法を始めて、旧来の鉤研の法を一変したことに始まる。その流派は、(唐の)張璪{チョウソウ}(五代十国時代(907-960)の)荊浩・関同・董源(?-962)巨然郭忠恕(?-977)・(北宋{ホクソウ}末南宋{ナンソウ}初の)米芾(1051-1107)米友仁(1074-1151)父子から、いわゆる元(1271-1368)四大家(すなわち黄公望{コウコウボウ}(1269-1354)呉鎭(1280-1354)倪瓉{ゲイサン}(1301-1374)王蒙(1308?-1385)に至る。このさまは、あたか禅家において六祖慧能(638-713)ののち南宗禅{ナンシュウゼン}が馬駒(馬祖道一、709-788)・雲門文偃(864-949)・臨済義玄(?-867)など末まで栄えたのに対して、北宗禅{ホクシュウゼン}が衰えてしまったのによく似ている。云々」とするもの。
 しかし、この論にはかなりの無理があり、北宗画{ホクシュウガ}は着色山水・南宗画{ナンシュウガ}は水墨山水と分類しているようだが、列挙されている画家は、必ずしもこれにあてはまらない。しかし董其昌の他の所論を勘案すれば、次の二点が明らかである。

 一は、明(1368-1644)の浙派を南宋{ナンソウ}院体画の後継者とし、浙派絵画の衰退と北宗画{ホクシュウガ}の衰退とを重ねあわせて考えていること。二は、元の絵画を、董源・巨然派(元末四大家)李成(919-967)郭煕(11世紀中葉)派とに分け、董巨派の方が李郭派より優れた作品を生み出したとし、それを南宗禅五宗の内でも臨済宗がひとり後世栄えたことになぞらえている。したがって、董其昌が考えた南宗画{ナンシュウガ}の正系とは、王維・董源・巨然・米芾・米友仁・元代董巨派(元末四大家)・明代呉派となるが、名目的な始祖として王維を除けば、これはいわゆる江南山水画の樣式的系譜と一致する。

 なお、この南北宗論の首唱者を、董其昌ではなく莫是龍であるとする有力な説がある。即ち莫是龍の著とされる『画説』の中にまったくの同一文がみられ、かつ『画説』の全文が董其昌の『画旨』等に混入している。このことについて従来さまざまな解釈が発表されているが、決着を見ない。 

 今一つの文人画論とは、「文人の画は王維より始まり、後継者は董源・巨然・李成・范寛をもって嫡子とする。李公麟(?-1106)王詵{オウシン}・米芾・米友仁らはみな董源・巨然を学んだ。(この派は南宋{ナンソウ}を飛び越えて)直接元の四大家に至るが、これらはみなその正系である。わが明代の沈周{シンシュウ}(1427-1509)文徴明(1470-1559)はまた(それまでの浙派を飛び越えて)遠く衣鉢を接している。馬遠・夏珪・李唐劉松年(南宋の画院画家と、その後継者である明の浙派)は、李思訓の流派であり、我々の学ぶべきものではない」とするもの。
 「文人画」の概念は、蘇軾(1036-1101)が提唱した「士人の画」を継承したもの。蘇軾は、士人の画には職業画工の画には求められない詩情の表出や人格の溢出があるとするが、明代に入るとこのことは行利家論{コウリカロン}としてかまびすしく議論されてきた。董其昌はこれに「文人画」と言う名を与えかつその系譜を示して見せたが、その系譜は南北宗論のそれとほぼ一致する。

 したがって南北宗論及び文人画論を通じて董其昌が行ったのは、
    南宗画{ナンシュウガ}=文人画=明の呉派
    北宗画{ホクシュウガ}=職業画工の画=明の浙派
という図式によって、自らがよって立つところの呉派の優位性を理論づけることであったと考えられる。
 しかし通時的に対立しながら存在し続けてきた二つの流派という概念は、当時の学者たちに新鮮な刺戟を与えた。主張を単純化する段階でかなりの矛盾を抱え込んでいるだけに、のちの絵画評論家たちはしばしば自らの南北宗論を提出し議論した。しかし南宗画=文人画=呉派の優位性と言う主張は教条となって、次ぎの清(1644-1911)朝三百年を貫いて生き続けた。

【参考】
古原宏伸『董其昌の書画』(二玄社、1981)
鄭威『董其昌年譜』(上海書画出版社、1989)
J.ケーヒル「中国絵画における奇想と幻想」(『国華』978-980、1975)
『徐渭 董其昌』(『文人画粹編』中国篇 5)
『董其昌画集』(上海書画出版社、1989)
Ho,W.-K. & Smith,J.,ed.,"The Century of Tung Ch'i-ch'ang 1555-1636",
  University of Washington Press, 1992.
Wu,Nelson, “The Evolution of Tung Ch'i-ch'ang’s Landscape Style
   as Revealed by his Works in the Nationa Palece Museum”,
    Proceedings of the International Symposium on Chinese Painting,
    National Palace Museum, Taipei, 1972.
鈴木敬「董其昌の画稿に就て」(『国華』791-792)
古原宏伸「董其昌 没後の声価」(『国華』1157)
福本雅一他訳『画禅室随筆』(日貿出版社、1984)


【作品】
 ○「婉孌{エンレン}草堂図」軸 (1597年43歳、米国/個人蔵)
 ○「葑涇{ホウケイ}訪古図」軸 (1602年48歳、台北/国立故宮博物院蔵)
 ○「青卞山図」軸 (1617年63歳、クリーブランド美術館蔵)
 ○「秋興八景図」冊 (1620年66歳、上海博物館蔵)
 ○ 臨倪瓉{ゲイサン}「東岡草堂図」軸 (1629年75歳、台北/国立故宮博物院蔵)
 ○「棲霞寺詩意図」軸 (1626年72歳、上海博物館蔵)
 ○「夏木垂陰図」軸 (台北/国立故宮博物院蔵)
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