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りこうりん 李公麟 Li Gonglin
? - 北宋・崇寧5(1106)年
北宋後期の士大夫画家。
字は伯時、号は龍眠居士、舒城(安徽省)の人。代々儒を業とする名家の生まれ。
煕寧3(1070)年の進士。南康(江西省星子)・泗州{シシュウ}(安徽省泗縣)等の地方官を歴任した後、元豊6(1083)年陸佃{リクデン}に推薦せられて中書門下後省刪定官、元祐6(1091)年から同8(1093)年までのあいだ監察御史であった董敦逸に辟せられて検法御史台、のち官は朝奉郎に至る。元符 3(1100)年、痺(リュウマチ)を病んで致仕、故郷に帰って龍眠山の岩壑間に龍眠山荘を営んで自適した。
以上、鄧椿撰『画継』(1167)の記事に基づいたが、張澂撰『画録広遺』中の記事(蔡肇が撰し翟汝文(1076-1141)が書した墓誌に基づくと思われる)によれば、李公麟はかつての南唐の国主・李氏の末裔、煕寧 9(1076)年の科挙に中ったが、ただちに龍眠山に隠棲して龍眠山人と号し、十年間仕えなかった。その間、金陵(江蘇省南京)にあった王安石(1021-1086)の知遇を得、しばしば往還した。董敦逸に薦められて御史台主簿検法官、咸陽からもたらされた玉璽を鑑定、卒時の官は朝奉郎という。
なお、蘇軾(1036-1101)や黄庭堅(1045-1105)と極めて親しく交遊したが、元祐の党籍からは免れている。
家蔵の豊富な法書名画を見て育ち、画は顧愷之{コガイシ}以下、前世の名手の作品より学び、やがて一家をなした。およそ古今の名画を得れば必ず臨摸して副本を蓄えたという。
人物画を得意とし、「帰去来兮{キキョライ}図」や「陽関図」、また隠退後の居所を画いた「龍眠山荘図」等は、当時から著名であった。また画馬を好み、しばしば韓幹の作品を摸したほか、宮廷所蔵の御馬を写した。
画くに当たっては、多く紙(ことに澄心堂紙)の上に画いて絹を用いず、また水墨を用いて丹青を施さなかったと言う。
なお、家に多くの青銅器を収蔵してその鑑識に詳しく、「考古図」5巻を著わし、紹聖(1094-1098)末には朝廷所得の玉璽を鑑定した。
【作品】
○「五馬図」巻(1086-1088、黄庭堅題。第二次世界大戦で焼失)。
当時宮廷で飼育されていた鳳頭驄{ホウトウソウ}・好頭赤・照夜白・錦膊驄{キンハクソウ}・満川花の五頭の馬を、
圉人{ギョジン}と共に白描で写したもの(ただし満川花は後補)。
北宋前半期に盛行していた呉道子流の描線とも、李公麟が復興したと文獻が傳える顧愷之流の
春蚕吐糸描{シュンサントシビョウ}(高古游糸描)とも異なり、それらを総合した線描法を用いて、冴え冴えとした
素描力を示すほか、圉人にみられる墨彩を用いた肖像画的な写実性が特筆される。
○「龍眠山荘図」巻 (台北/国立故宮博物院ほか)
王維(699-759;701-761)「輞川図」と並び称される山荘図の典型とされるが、数本ある
現行本はどれも重模本であり、往時の精彩はない。
○「孝経図」巻 (プリンストン大学美術館蔵)
なお日本では古来、南宋(1127-1279)時代に製作された着色の羅漢図を「龍眠様{リョウミンヨウ}」と称して李公麟に仮託し、水墨による「禅月様{ゼンゲツヨウ}」(貫休の項を見よ)と対照するが、李公麟その人とは関係しない。
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