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こうせん 黄筌 Huang Quan
?-北宋・乾徳 3(965)年 9月 2日
五代十国時代、前蜀(891-925)・後蜀(934-965)の両王朝に相次いで仕えた宮廷画家。字は要叔、成都(四川省)の人。
天復(901-904)年間、長安(陝西省西安)の花鳥画家・刁光胤{チョウコウイン}が入蜀すると13歳でこれに学び、17歳で師とともに前蜀の後主(王衍、在位919-925)に仕え、19歳で朱衣・銀魚袋を賜わり監都麹院となる。後唐・同光3(前蜀・咸康元,925)年、前蜀が滅び孟知祥が成都尹・剣南西川節度副大使・知節度事となると厚く礼重せられ、後蜀・明徳元(後唐・応順元,934)年、孟知祥が帝位に即く(後蜀・前主、在位934-937)と翰林待詔・権翰林院事を授けられ、紫服・金魚袋を賜わった。
また一説には、後蜀・明徳 4(後晋・天福 2,937)年、孟昶が帝位を継ぐ(後蜀・後主、在位937-965)と待詔・検校少府監となり、皇后袁氏の真(肖像)を写して如京副使・検校戸部尚書・兼御史大夫となった。広政 7(944)年、淮南より使者がきて鶴 6羽を献じたが、命じられてこれを六鶴殿の壁に画いて激賞せられ、内供奉・朝議大夫・検校少府少監・上柱国となった。
これらに見られる官名は、ともに基本的な伝記資料を提供する黄休復『益州名画録』(1005)と劉道醇『聖朝名画評』(1056)とではやや相違するが、いずれにせよ一介の宮廷画家が到達した官位としては異例に高い。
北宋・乾徳 3(後蜀・広政28,965)年、後蜀が宋に滅ぼされると、子の黄居寀らとともに北宋の首都・開封(河南省)に至り、太子左賛善大夫を授けられたが、病のため 9月 2日卒した。子の黄居寀・門人の夏侯延祐らは宋の翰林院に入り、その花鳥画風を北宋宮廷に伝えた。
のちに、黄筌一門の花鳥画風を黄氏体と呼び、これに対して江南の徐煕の一門の花鳥画風を徐氏体と呼ぶ。この両者は、さまざまな点で対立的なものであったという。
郭若虚は、徐煕の画が「多く江湖の有する所の汀花・野竹・水鳥・淵魚を状す。今世に伝う鳧雁{フガン}・鷺鷥{ロシ}・蒲藻・蝦魚・叢艶・折枝・園蔬・薬苗の類、是なり。また翎毛{レイモウ}の形骨は軽秀を貴び、天水色を通ず」るものであったのに対して、黄筌・黄居寀らの画は「多く禁禦{キンギョ}の有する所の珍禽・瑞鳥・奇花・怪石を写す。今世に伝う桃花・鷹鶻・純白雉兎・金盆鵓鴿{ボツコウ}・孔雀・亀鶴の類、是なり。また翎毛の骨気は豊満を尚び、しかして天水色を分かつ」といい、両者を対比して「黄家は富貴、徐煕は野逸」という諺を紹介している(『図画見聞誌』1074「論黄徐体異」)。
沈括{シンカツ}(1031-1095)もまた、「諸黄の画花、妙は賦色に在り、用筆は新細を極め、殆ど墨迹を見ず、但だ軽色を以って染成し、之を写生と言う。徐煕は、墨筆を以って之を画くに、殊に草草、略々丹粉を施すのみ。神気迥{ハル}かに出で、別に生動の意有り」と対照する(『夢溪筆談』17)。
この両派の様式は、二本の糸のように絡み合いながら、後世まで多大の影響を与え続けた。
【作品】
○「写生珍禽図」巻(北京/故宮博物院蔵)
巻末に「付子居宝習」の五字があり、子の黄居宝に与えた絵手本とされる。
制作年代を推測することは難しいが、いずれにせよ後世の模本であろう。
【参考】戸田禎佑「北宋時代の花鳥画」
(鈴木敬・町田甲一編『中国文化叢書 7 芸術』所収、大修館書店、1971)
戸田禎佑・小川裕充『中国の花鳥画と日本』(『花鳥画の世界』第10巻、学習研究社、1983)
王耀庭『中国絵画の見かた』(二玄社、1995)
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