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じょい 徐渭 Xu Wei
明・正徳16(1521)年 2月 4日-萬暦21(1593)年
明後期の文人、書家、画家。
字は文清・文長、号は天池山人・青藤道人・田水月・金壘等多数、山陰(浙江省紹興)の人。大雲坊観橋巷の大乗庵東榴花書屋(今の青藤書屋)に生まれる。
王守仁(陽明、1472-1528)の弟子・季本に師事。1540年(20歳)から8回にわたり杭州(浙江省)の郷試を受けて失敗、41歳で科挙の業を捨てた。
嘉靖36(1557)年、兵部侍郎・胡宗憲(?-1565)は倭寇対策のため浙江巡撫を兼任したが、37歳の徐渭はために「謝表」等を作り、その幕僚となる。嘉靖41(1562)年厳嵩(1480-1565)が官を罷めその子・厳世蕃(?-1565)が謫せられると、胡宗憲も連坐して解職せられ、徐渭も失職した。
嘉靖42(1563)年、李春芳(1510-1584)の招きによって京師(北京)に行き、その幕客となったが、翌年、南帰。
嘉靖44(1565)年、厳世蕃が誅に伏し、厳嵩家が籍没せられ、胡宗憲は改めて獄に繋がれ自殺するということが起った。45歳の徐渭は禍の及ぶことを恐れ(一説に発狂し)、自ら墓誌銘をつくり、斧で頭を打ち、錐で耳を刺し、椎で陰嚢を碎いたが、死には至らなかった。
翌45(1566)年、妻の不貞を疑ってこれを殺し、ついに捕えられ、7年にわたる獄中生活を送った。この間、本格的に画の制作を開始。
隆慶 6(1572)年除夕、赦免され、これより後は、後遺症に悩みながら、南京(江蘇省)・宣府(河北省宣化)・北京などの各地を転々とした。61歳以降は郷里に隱退し、売文売画の赤貧の生涯を送った。
一般的には、書家として、また詩文・雑劇の作者として著名。生前にはほとんど無名であったが、その死後、袁宏道(17c.初)が李攀龍(1514-1570)・王世貞(1525-1593)らの古文辞派とは異なる作風を示す詩人として紹介し、有名になった。著に別集『徐文長三集』・戯曲四部作『四声猿』等がある。
画家としては、極めて粗放な筆墨法を驅使した花卉・雑画を画いた。花卉雑画は徐氏体から牧谿へ受け継がれ、沈周{シンシュウ}(1427-1509)によって復興されたジャンルだが、徐渭は元画をも取り入れながら題材と技法を拡充し、感興を画面に叩きつけるように製作された作品は、本格的な写意的花鳥画の誕生を示しており、のちの八大山人(1626-1705)への径を開いた。
【参考】『水墨美術大系 11 八大山人・揚州八怪』(講談社、1975)
『文人画粹編 5 徐渭 董其昌』(中央公論社、1977)
米澤嘉圃「明代における花卉雑画の系譜」(『泉屋博古館紀要』2、1985)
【作品】
○「雑花図」巻(南京博物院蔵)
徐渭の数ある花卉雑画図のうちの最優品である。
○「花卉雑画図」巻(1575, 東京国立博物館蔵)
○「花卉図」巻(1591, 京都/泉屋博古館蔵)
○「榴実図」軸(台北/国立故宮博物院蔵)
○「墨葡萄図」軸(北京/故宮博物院蔵)
○「牡丹蕉石図」軸(上海博物館蔵)
ほか。
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