跡見学園女子大学 *** 柳上書屋 *** Students' Top *** 中国絵画史辞典

さんすいが  山水画  shanshuihua

 中国絵画の一ジャンル。六朝時代に成立し、唐代以降には人物画花鳥画と並ぶ三大ジャンルの一となった。
 時間的且つ空間的に人間の尺度を超越した、天地悠久の大自然を主題とする。
 

〔山水の概念〕

 「山水」とは、山と川を取り上げて、大自然を提喩する言葉である。
 早く殷墟から出土する甲骨の卜辞に、祖先神などのほか山・川・風・土地などの自然神が祀られていたことが知られており、古くはアニミズム的な信仰の対象であった。また先秦の古典等には、随所に山川の祭祀に関わる記事が見られる。例えば、「天子は天下の名山大川を祭り、・・・諸侯は其の彊間の名山大川を祭る」と(『史記』封禅書)。山の崩壊と川の枯渇は、人間を超越した大自然の力の象徴であり、五岳と四瀆{シトク}を祭ることは、天子の役割であった。

五岳  東岳泰山・西岳華山・南岳衡山・北岳恒山・中岳嵩山の五の山を言う。
四瀆  江水・河水・淮水・済水の四の川を言う。
  なお、江水は今日の長江(揚子江)、河水は黄河、淮水は淮河。済水は王屋山(河南省済源県)に発して、昔は黄河と平行して東流していた川。今は黄河の一支流となっている。

 類似の語として「江山」「山川」等がある。「山水」の語と大きな意味の違いはない。
 「山水」の成語は、『論語』雍也篇に「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿{イノチナガ}し」とあるのに基づく。南朝の晋宋のころには、「山水に遊ぶ」「山水を楽しむ」等、しきりに用いられた。


〔山水画の起源〕

 漢末184年の黄巾の乱に幕を開ける長い戦乱の時代の始まった三国時代(220-280)以降、政治権力は軍人の手に移り、知識人である士大夫は老荘思想に傾き、「竹林の七賢」に代表されるように、山林に隠れて世俗のことを謝し、酒や音学に気を紛らわせ、「清談」に耽った。

 東晋(317-420)に入ると、戦乱に荒れ果てた華北から江南に移る人々が増えはじめ、彼らの目によって江南の山水の美が発見された。例えば、愷之は「会稽(浙江省紹興)より帰る。人 山川の美を問う。顧 云う、〈千巌 秀を競い、万壑 流れを争う(千巌競秀、万壑争流)。草木其の上に朦籠たるは、雲 興り霞 蔚{ウツ}たるが若し〉と」と、また王献之(344-386)は「山陰(会稽)道上より行けば、山川自ずから相映発し、人をして応接に暇あらざらしむ。秋冬の際の如きは、尤も懷を為し難し」と言ったという(ともに『世説新語』言語篇)。どちらも今日の浙江省紹興地方の山水の美しさを賞賛したものである。

 山水の美を芸術の対象として取り上げるためには、いったん山水の美そのものを外在化する過程が必要であった。のちに南宋の詩人・陸游(1125-1210)が次のように歌っているのは、そのことである。「江頭の漁家 茅廬を結ぶ。青山 門に当りて画も如かず。・・・恨むらくは渠{カレ} 生来書を読まず。江山 此の如きも一句とて無し」と。

 宋(420-479)のころになると、中国文化の中心がほぼ江南に移った。このころ、『文心雕龍』(5c.末)が「宋初の文詠、体因 革有り。莊老 退を告げて、山水 方{マサ}に滋{シゲ}し」と記したように、山水自然を歌うことが盛んに行われた。謝霊運(385-433)はその代表であり、故郷の会稽の山を詠った「白き雲は幽{クラ}き石を抱き、緑の篠は清き漣{サザナミ}に媚ぶ」(「過始寧墅」)等の名句を遺した。

 3世紀から5世紀にかけての以上のような文芸状況の中で、山水画もまた誕生した。
 顧愷之の『画雲台山記』は、道教の一派の儀礼を画く「雲台山図」の画き方を記した文章であり、山水画についての最古の記録である。文中「慶雲をして西よりして東方清天の中に吐かしむべし」などの句に察せられるように、理想的な神仙山水であったことが知られる。
 また『文心雕龍』原道篇第一には、「日月 璧{タマ}を畳ねて以て麗しき天の象{カタチ}を垂れ、山川 綺を煥{カガヤ}かして以て理{スジメ}ある地の形を鋪{シ}く。此れ蓋し道の文なり。仰いで吐曜を観、伏して含章を察す(天には日月が玉をつらねたように懸かり、地には山川がかがやかに美しく條理ある形勢を鋪いている。これぞ思うに宇宙自然のあらわす文というものである。仰いでは天に日月のかがやくを觀、伏しては地に方物の美を包藏するのを見る。目加田誠譯)」とあり、山水画は天文・人文と並ぶ地文を画く使命を負ったものと思われる。
 すなわち山水画はその発生の当初から、たんなる風景画ではなく、人間を超越した存在としての象徴性を持っていた。

 初期の山水画家の一人である宗炳(375-443)は『画山水序』を著した。現存する最古の山水画論であり、山水画の存在価値を定立するとともに、記されていることを文字通りに解すれば、後々の所謂「透視図法」perspective を実践していた点でも、注目するに値する。
 山水画の価値に関する哲学的思弁が如何にあれ、制作の現場では着々と新しい技法が獲得されていったものであろう。


〔初期の山水画〕

 考古学上の資料に見られる最古の山水表現としては、山西省平陸県棗園から1959年に出土した後漢初期の墓壁画が挙げられる。すなわち、四方の壁に牛耕・播種・塢壁・山水を画き分ける。また、四川省成都周辺から出土した後漢の画像磚に、人間生活の場としての自然景を描写するいくつかの例があり、その中に山並みを写すものがある。
 しかしこれらは、いうまでもなく山水画として画かれたものではなく、環境描写の一環でしかない。
   【作品】
    ○後漢・作者不詳「塢壁(山水)図」壁画 (1c.初, 山西省平陸棗園村漢墓出土)
    ○後漢・作者不詳「狩猟・耕作図」画像磚 (四川省出土)
    ○後漢・作者不詳「製塩図」画像磚 (四川省出土)

 文献資料の上では、魏晋以来の山水画の発展を鳥瞰して記述したものに、張彦遠『歴代名画記』「論画山水樹石(山水・樹石を画くを論ず)」がある。現存遺品が希少な唐(618-907)以前の山水画の変遷については、この一文に基づきながら、片々たる関連絵画遺品を傍証としつつ論じられてきた。

 張彦遠によれば、初期の山水画は「群峰の勢いは、鈿飾犀櫛(螺鈿の飾りを施した犀の角で作った櫛の歯)の若く、或いは水は泛ぶを容れず、或いは山は人よりも大」であり、樹木の枝ぶりは「臂を伸ばし指を布くが若」きものであった。
 ところが、初唐(618-709)閻立本(?-673)らを経て、盛唐(710-765)時代には、李思訓(653-718)・李昭道父子及び呉道子によって、山水画の変革が成し遂げられた、とする。とくに呉道子については、蜀道で山水を「写貌(肖像画を画くこと)」したこと、「縦{タト}い怪石崩灘を以てするも、捫{ナ}で酌むべきが若」かったことが特筆されている。
 これらを要するに、プリミティブな primitive 様式になっていた初期の山水画が、盛唐時代に李思訓・李昭道・呉道子らにより、自然主義的な naturalistic 様式へと変革されたものと考えられている。

 なお、この時代の山水画は着色によるものであった(稀に白画によるものがあったであろう)。その彩色法が山体を群青・緑青・岱赭で塗りわけ、その色面対比によって画面を構成してゆくものであったので、後には「青緑山水」と呼ばれ、またしばしばハイライトとして岩の角などに金泥による線や片暈しを付したので「金碧山水」とも呼ばれる。

【作品】
 六朝時代から唐にかけての山水画乃至山水表現を考察する上で有効な作品としては、次に掲げるようなものがある。
 ○ 東晋・顧愷之(伝)「洛神賦図」巻(北京/故宮博物院蔵ほか。宋の模本か)
 ○ 東晋・顧愷之(伝)「女史箴図」巻(ロンドン/英国博物館蔵。初唐の模本か)
 ○ 南朝・作者不詳「郭巨埋児図」画像磚(5c.、河南省鄭州学荘村墓出土)
 ○ 南朝・作者不詳「竹林七賢と栄啓期像」(5-6c.、南京西善橋宮山墓出土画像磚)
 ○ 北朝・北魏・作者不詳「九色鹿王本生図」壁画(5c.後半、甘粛省敦煌莫高窟257窟)
 ○ 北朝・北魏-北斉・作者不詳「孝子伝図」石棺浮彫
   (6c.、キャンサスシティ/ネルソン-アトキンズ美術館蔵)
 ○ 隋・展子虔「遊春図」巻(北京/故宮博物院蔵。最古の「山水図」の遺品)
 ○ 唐・作者不詳「狩猟図・馬毬図」壁画
   (706、陝西省乾県乾陵陪葬/章懐太子李賢(654-684)墓壁画)
 ○ 唐・作者不詳「儀仗図」壁画
   (706、陝西省乾県乾陵陪葬/懿徳太子李重潤(682-701)墓壁画)
 ○ 唐・作者不詳「山水図」壁画
   (710、陝西省富平県定陵陪葬/節愍太子李重俊墓壁画)
 ○ 日本・作者不詳「騎象胡楽図」琵琶捍撥面(8c.前半、奈良/正倉院蔵)
 ○ 唐・作者不詳「明皇幸蜀図」軸(8c.後半、台北/国立故宮博物院蔵。宋模)


〔水墨山水画の誕生と発展〕

 中唐(766-835)のころ、江南で活躍した王墨が始めた「溌墨」は、水墨による山水画を生み出し、山水画の発展は新たな段階を迎えた。

 すなわち、山水画はこれより「濃淡を伴った墨面」を表現手段の一として加えた。旧来の鉱物性顔料(群青・緑青・岱赭)に比較すれば、墨色による濃淡の諧調は無限に細分化された調整が可能である。ここに山水画は、山や岩のモデリングのみならず、空間を満たすアトモスフィアの描写のための強力な手段を手に入れた。ことにアトモスフィア、すなわち烟霞風雨などの大気の現象と光の描写は、明確な形体のブロックの積重からなっていた彩色山水の構造を根本から覆し、統一された空間を構成することを可能とした。
 ただし、初期の奔放な「溌墨」から、山水画としての統一された空間の描写の完成に至るまでの道程は短くはなかった。筆と墨との相克、イメージとイリュージョンの関係等々、幾多の問題を、中国の山水画家たちは200年かけて克服した。これらの問題については、「水墨画」の項目を参照されたい。


 さて、安史の大乱(755-763)によって唐朝が大きく傾いてから以降は、一進一退はあったにせよ、唐王朝の瓦解と各地における軍閥の割拠に向けて時代は大きく動き、やがて名実ともに中国が四分五裂した五代十国時代(907-960)を迎える。
 この時代、山水画も地方様式に分裂し、華北様式と江南様式と云う、その後の山水画の展開に対して後々に至るまで決定的な影響を及ぼし続けた、二つの大きな流派を生み出した。

 五代(後梁・後唐・後晋・後漢・後周)の王朝がめまぐるしく交替した黄河流域の中原にあっては、華北山水画様式が形成された。唐朝山水画の形式を継承発展させながら、荊浩関同らの先駆者の努力を経て、東の山東地方には李成(919-967)が出て山東様式を、西の陝西地方には范寛(?-1023-)が出て陝西様式をそれぞれ完成した。いずれも、徹底した自然観察に基づき自然主義的 naturalistic に山水を再現した上、人間存在を超越した大自然の偉大さとそれへの畏敬をモニュメンタルな構成の中に表現した。
 山東派と陝西派の差異は、山東派が平遠形式を完成した平野の山水画であり、陝西派が高遠形式を完成した山の山水画であると性格づけられよう。

 ここに平遠・高遠とは、これらに深遠を加えて三遠と呼ばれる空間構成法のパターンであり、後に郭煕(11世紀後半)が理論づけたものである。すなわち、
   平遠とは、平原の広がりを、角度の小さい俯瞰視によって、
    画面に穴の開くような奥行きとして表現すること、
   高遠とは、聳え立つ山の高さと大きさを、これを仰視するようにして捉え、
    あわせて山体と観者との間に巨大な空間の厚みを構成すること、
   深遠とは、Ⅴ字型の山襞を左右から折り重ね、渓谷の奥行きあるいは
    山々の重なりと遠さを表現すること、
であると考えられる。なお、これらを仰視・水平視・俯瞰視と云う視角の問題として捉える論者があるが、適切な解釈ではない。
 三遠に当るものは、すでに唐・作者不詳「明皇幸蜀図」軸(台北/国立故宮博物院蔵)や日本・作者不詳「騎象胡楽図」琵琶捍撥面(奈良/正倉院蔵)などにその原型が看取されるから、中原における伝統的な山水画構成法に萌したものであろう。しかし水墨という新たな表現手段を手に入れて、この時代に空間構成法として大きく成長し、山水画の主要な構成原理にまで発展したものと考えられる。

 長江の南岸を領した、十国の一・南唐(937-975)では、江南山水画様式が興り、董源(?-962)巨然らの画家を出した。かけらは江南の穏やかな自然景観を自然主義的に再現したが、とくに、対象の形体よりは空間を満たすアトモスフィアの描写に力点を置き、印象主義的 impressionistic なといい得るほどまでに、大気や、ことには光の表現を追及した。

 総じて、10世紀は、中国絵画史上に燦然と輝く偉大なる創造の世紀としてよい。ここに名を挙げた画家たちは、大自然と取り組み、筆墨と格闘しながら、その一人一人が独自の個人様式を打ち立てた。そのそれぞれの個性的な様式は、各々の画家の名とともに、後々まで中国山水画の規範となって伝えられ、則られた。



〔宋代の山水画〕

 宋(960-1279)代、中でも北宋(960-1127)は、200年ぶりに中国を再統一(979)した王朝であり、山水画もこの時代に統合を迎える。
 20年を越える中国再統一の事業の過程で、各地の地方政権下にあった画家たちは、宋の都・開封(河南省)に連行され或いは自ら蝟集した。そこでは、華北山水画様式と江南山水画様式が並行され、やがて融合していった。

 この時代の画壇を論ずるには、翰林図画院の存在を無視し得ない。宮廷作画機構として前代の翰林院を引き継いだ北宋は、ここに多くの画家たちを召し抱え、やがて翰林図画院を独立させた(984)。この画院は、山水画のみならず、花鳥画・人物画においても、さまざまな画風の坩堝となり、11世紀後期における統合の揺籃となった。
 山水画家としては、10世紀末から11世紀初に画院にあっ江南出身だが范寛の影響を受けた燕文貴、11世紀前半に画院にあった華北出身の高克明が活躍し、その門人たちが作った二つの流派は北宋末まで画院に存続した。

 前代の山水画を統合して、唐宋山水画の頂点を築き上げたのは、華北出身の郭煕(11世紀後半)である。
 郭煕は、独学で李成の作品を学び、華北山水画様式に立脚しながら南北の両様式を統合して、総合的な完成に導いた。神宗(在位1067-1085)が即位すると直ちに召されて上京し、その寵愛を受けて翰林御書院から翰林学士院を足場にして宮廷画家として活動し、多くの宮殿・政庁に壁画を画き、一代の寵児となった。その画風は唯一の遺品「早春図」軸(1072年。台北/国立故宮博物院蔵。158.3 x 108.1cm)に見ることができるほか、山水画論『林泉高致集』があり、制作理論と実作品の両面から、郭煕の画家としての業績を検することができる。
 「早春図」では、郭煕は卓越した技術によって筆法と墨法を完全且つ絶妙に制御し、煙靄に隠見する自然景観と、空間に遍満する光を描写し、三遠を組み合わせて、モニュメンタルでありながら理想的な山水を画き出す。数々の壁画を制作したというその大画面性は、整斉とした構図に反映し、中央に置かれた主山を軸としてほぼ左右対称の構図の内に、中央には下から上へとうねるように上昇する動勢の系を作って鑑賞者の視線を誘導し、左右には平遠や深遠を構成して近景から遠景までを過不足なく排置し、またそこに人事に関わる複数のモティーフを配置して、鑑賞者に山水に游ぶさまざまな心を起こさせる。
 なお、このような大自然の全体を余すところ無く画く画面構成法を、歴史的には「全境」といい、今日では大観的構図法と呼び習わす。

 北宋の山水画を考察する上では、士大夫の評論活動を無視し得ない。時代に卓越した文人・官僚であった欧陽脩(1007-1072)・王安石(1021-1086)蘇軾(1036-1101)・黄庭堅(1045-1105)らは、いずれも一家言を持つ絵画評論家でもあり、彼らは時代の絵画思潮を牽引した。
 例えば、欧陽脩(1007-1072)は梅尭臣(1002-1060)に与えた詩に、「惟だ山川有りて勝絶と為す、人に寄せ画図に作りて誇るに堪えたり」(「寄梅聖兪」)と言い、不遇の時期の士大夫の心に安らぎを与え、文芸創作の助となるものは山水画だという。また蘇軾は、「士人の画」を特別に取り上げ、一般の画工の作品にはない「気韻」の俊発を見出す(「又跋漢傑(宋子房)画山」)。一般の画工と士人との差は、「世の工人あるいは能くその形を曲尽すと雖も、その理に至りては高人逸才に非ざれば弁ずること能わ」ない(「浄因院画記」)ところにあるといい、「画を論ずるに形似をもってするは、見 児童と鄰す」(「書鄢陵王主簿所画折枝二首」の内)と断ずる
 また蘇軾らは、「画は無声の詩、詩は有声の画」と唱え、詩画の表現目標の一致を主張し、自らも自他の絵画作品への題詩・跋文を数多く制作した。なお、これより無声詩は絵画の雅称となった。

 郭煕の山水画が同時代に他を圧倒するほどに受け入れられたのは、このような文人たちの絵画観を実践しえたからに他ならない。郭煕はその著『林泉高致集』山水訓・画訣の中で、山水画は君子(士大夫の理想的なあり方)のためにあるものと位置づけ、その合目的的なあり方を「山水画の本意」とし、それにそったモティーフの選定から構図の決め方(主山と長松を頂点として配置されるさまざまなモティーフの作り出す関係を、郭煕は皇帝を頂点とする社会秩序の象徴とする)までを、「山水画の本意」に沿って論じ、その一々に象徴的な意味を付与しているのである。
 その結果「早春図」は、一個の絵画作品として純粋にその造形面から鑑賞し評価することができるけれども、その画かれたモティーフの一々や構図に込められた象徴的な意味を読み取っていくと、そこには哲学的といってよいほどの思弁の綴れ織りが出現するのであり、それこそが、同時代の士大夫から支持された所以である。


 郭煕以後の世代の画家たちにとっては、いかにして郭煕が達成した完成を超えるかが課題となった。
 王詵{オウシン}は、それを着色山水の復興に求めたが、これより宗室画家と画院を中心に着色山水が流行し、彩色に関わる表現の可能性、ことには水墨と調和しえる色彩の可能性がもう一度追求され、その試みは南宋画院にまで引き継がれた。
 趙令穣は、「小景」画という新しいジャンルを創出した。記録によれば、彼は宗室であったが故に京洛(河南省の開封と洛陽)の間五百里内から出られず、遠游が適わなかったため、経眼の郊外の風景を画いたという。そこでは、近寄りがたいまでの象徴的存在であった山が姿を消し、群鳥・水禽など花鳥画的なモティーフを取り入れ、卑近な景物をことさらな象徴性を離れて近接描写している。このようなあり方は、その発生以来の山水画のあり方とかけ離れること著しいと考えられたため(おそらくは花鳥画への接近とも捉えられたであろう)、「小景」の名を以て区別された(やや蔑称のニュアンスを含む)。しかし「小景」は、その発生以来、大仰な象徴機能に縛られてきた山水画を、その呪縛から開放する試みとも考えることができ、近代的な風景画の萌芽であったとする位置づけが可能である。



 靖康の変(1127)による北宋の滅亡は、北宋文化の一旦の滅亡をも意味した。
 南宋山水画は、主として、北宋画院の細々とした生き残りである李唐(12世紀前半)が伝えた山水画様式を基盤にして、新たに復興された(ca.1140s-1150s)画院を中心に発展した。

 李唐は、北宋最末期の徽宗(1082-1135,在位1100-1125)朝の画院に所属し、その指導を親しく受けた画家であった。徽宗は、当時の画院画家たちの技術偏重に飽き足らず、士大夫の鑑賞にも耐え得るような高質の宮廷絵画の樹立を目指し、日々画院画家の指導に当ったという風変わりな皇帝であった。その指導の要点は、蘇軾らの絵画観を継承して、「詩」の内容、すなわち詩情をいかに造形するかについての方法の指導であり、しばしば詩の一句一聯を与えてこれを絵画化させ、その結果を品評・指導した。一説によると、李唐はある試題で一位を取ったという。

 李唐による詩情の表現がどのようなものであったのかをよく示す作品が、彼が南宋画院時代に作成したと考えられている「山水図」双幅(京都/高桐院蔵。98.0 x 43.6cm)である。
 北宋山水画に比べて、画面の寸法自体が小さくなっていることもさることながら、モティーフの種類と数が限定され、画かれている景境が部分化され、主題は単一化されている。端的にいえば、郭煕「早春図」の一部分を切り取ったかのような主題であり、構図である。
 主山は左右対称の大観的構図法とともに姿を消し、画面に対角線を引いた場合、主要なモティーフ群を左右いずれかの対角線の下方にまとめ、その反対側は「余白」として遺す。なお、日本の研究者はこのような構図法を対角線構図法と呼び、北宋の大観的構図法と対照する(中国の歴史的用語法によれば、前者は「辺角」「一角」、後者は「全境」がこれに対応する)。画面の右下乃至左下、構図の要となる場所には一二の人物(士大夫)乃至その存在を示唆するモティーフ(ここでは茅屋)が近接描写され、鑑賞者はこれに感情移入することによってこの山水の境を体験し、その詩的情趣は対角線の反対側の「余白」の中に共鳴していく。
 このように、李唐の山水画は画面に明快な視覚的律動を与え、主題を単純化してモティーフの数を限定するものであったから、作品に付与される象徴機能も単純化し、理解しやすいものとなった。北宋山水画が持っていた、人間存在を超越した大自然の威圧感は姿を消し、むしろ身近な自然の一こま一こまに対する細やかな人間感情のありようが画きだされているということができる。

 南宋画院は、以後、閻次平/閻次于兄弟・劉松年馬遠/馬麟父子・夏珪梁楷李嵩ら、数多の優れた山水画家を輩出した。それぞれに個性的な様式を達成しているが、その造形の基本的な枠組みは、上述した李唐のものを踏襲している。

 南宋画院における院体山水画が、百年の隆盛の後に衰退して行った理由の一つとして、詩情の表現の問題が挙げられる。
 「詩書画三絶」とは、異なるジャンルの芸術を同一平面上に取り上げていわば総合芸術を目指すものであり、その意図は宜しい。しかしこれを、画家の立場から言えば、万一にも詩の作り出すイメージに妥協し或いは依存して、絵画としての独自の表現を遠慮し或いは放棄するならば、それは直ちに造形性の脆弱化を意味する。「詩書画三絶」は、全く表現の形式の異なる文学からの、絵画への干渉となる危険性を孕んでいた。
 そしてそれは、南宋末の院体山水画において不幸にも実現した。例えば馬麟の作品が、ことに冊頁などの小品においていかに繊細な感性に裏打ちされかつ味わい深いウィットに富んでいるとはいえ、皇帝・皇后の著賛を予定した軸物のような正規・公式の制作において、いかに造形上脆弱であるかを見れば、直ちに納得しえるはずである。



 このような画院絵画の隆盛に対して、文人たちの作画活動は、南宋時代には概して振るわなかった。
 その一つとして、米友仁(1074-1151)「墨戯」としての「雲山図」群の制作が挙げられる。かれはこれを通じて「地」の「白さ」の美を見出し、直接の後継者は生み出さなかったものの元以降の山水画に一つの拠り所を与えた。
 いま一つは、舒城(安徽省)の李氏によって画かれた「瀟湘臥遊図」巻(ca.1170、東京国立博物館蔵)である。嘗ての江南山水画様式が地方の在野の画家によって保存されていたこと証してくれる作品であるが、当代の孤本であり、前後の影響関係等は知りえない。


 南宋画壇は、一方で僧侶画家の台頭を見た。その中から、宋末に牧谿と玉澗が出て、それぞれ山水画を善くした。
 牧谿は作画の幅の大変に広い画家であり、道釈画・花卉雑画に本領があるかもしれない。その唯一の山水画遺品である「瀟湘八景図」巻断簡(東京/根津美術館等に分蔵)は、タブローとしての画面構成、自然主義的な自然描写、淡墨を駆使したアトモスフィアの描写とモティーフの形体の融解、画題である瀟湘八景に関わる詩情の表現、等々において、郭煕「早春図」と並ぶ質の高さを達成しており、かつそれとは異なった、印象主義的 impressionistic な対象把握において、古今に冠絶している。
 玉澗もまた、「瀟湘八景図」巻断簡(東京/根津美術館等に分蔵)と、「廬山図」断簡(日本/個人蔵)によって知られる。
 玉澗の山水画風は、同時代でありながら牧谿とは全く異なる。自ら詩人でも合った玉澗は「詩書画三絶」を追求し、タブローとしての完成を求めない。かつての「溌墨」の効果を狙い、「イメージとイリュージョン」「地と余白」等の問題を意図的に追求する。
 他の人物画等のジャンルの成果から見ても、この時代には逸品画風のあり方がいま一度さまざまに試みられたと思しいが、玉澗はそれを山水画で行った画家である。



 ここで最後に唐宋の山水画を鳥瞰するに、当代の山水画は自然主義 naturalism と理想主義 idealism を造形の柱とするものが、一貫して主流を占めていた。ことに光や大気の洗練された表現、付与された象徴機能の理想性など、西欧16世紀の理想的風景画に勝るとも劣らない。中国絵画史上で見ても、その達成した質的な高さは前後に群を抜いており、のちのちまで依拠すべき規範として機能した。その意味で、当代の山水画を「古典的」classic、すなわち「規範的」と呼んで構わないであろう。

 その意味で、わが日本においてこの時代の中国絵画を「規範」として受容したことは、全く不自然ではなく、後の中国や朝鮮半島における事情と異なるところは無い。
 ただし中国・朝鮮半島・日本において、のちに受容した内容について偏りがあったのは事実である。所謂「日本的」な造形の本質を理解しようとするとき、この枠組みは踏まえるべきものである。



〔元代の山水画〕

 モンゴル民族による元(1271-1368)王朝は、漢民族国家である南宋を滅ぼし、歴史的に漢民族の地であった、しかも理念的にも漢民族の地であるべき中国を、初めて異民族として全面的に征服・占領し、支配した王朝である。
 モンゴル民族自身は、鑑賞用絵画と呼びえるほどのものを未だ持っていなかったし、支配者は漢民族の文化を抑圧することはできる限り避けたから、中国絵画がその直接の影響を受けることはなかった。むしろ近年では、この時代に、世界帝国であったモンゴルの東西交流能力によって、中国絵画(山水画を含む)の影響が西方へ、すなわちイランからビザンチン帝国にまで達したことが知られており、さらには、ビザンチンを経て後の西欧のゴシック・ルネッサンス美術にまで影響を及ぼしている可能性について論じられてさえいる。

 とはいえ、 異民族支配に由来する漢民族に対する差別は確かに存在したし、知識階級にとっては亡国の憂鬱はぬぐいがたかった。また、宋代とは異なって元は画院に当るような宮廷作画機構を設置しなかったから、在野の画工たちにとっても嘗ての永光の地位は望み得なかった。
 このような抑鬱状態をどのように打破して行くのかが、当代の画家たちの共通の課題であり、そのような意識化は、当然の事ながら、知識階級に属した文人の画家から始まった。

 元初の文人画家たち、趙孟頫(1254-1322)銭選らは、亡国の王朝・南宋の絵画を「残山剰水」「辺角」として否定し、北宋以前に「復古」しようとした。具体的には、次のような過去の山水画風が「復古」の対象となった。
  ① 唐の着色山水
  ② 五代の華北山水画様式
     (これを復古した画家たちを、李郭派と呼ぶ)
  ③ 五代の江南山水画様式
     (これを復古した画家たちを、董巨派と呼ぶ)
  ④ 北宋末の米芾(1051-1107)による米法山水
なお、山水画以外では、六朝の人物画様式や、北宋の枯木竹石・墨竹なども「復古」された。

 中国では「復古」は、毛沢東(1893-1976)時代の「用古為今(古を用いて今の為めに用いる)」というスローガンを思い出すまでも無く、改革を意味した。東アジア世界の文化の中心であり続け、他に習うべき手本を持たなかった中国は、行き詰まりを打開するための改革は、しばしば「復古」を手がかりとし、旗印とした。したがって元代の「復古」も、懐古とは異なる。
 ただし元の画家たちが上記のような画風を「復古」するに当っては、もとの画風が持っていた「自然のイリュージョン」の重要な一部を捨て去った。すなわち、モティーフの三次元的再現・空間と空間を満たすべきアトモスフィア(大気の現象と光)の描写を捨象したのである。
 その代わりに彼らは、表現の手段そのものである筆墨にこだわった。すなわち一方で筆線の持つ、書道に範を求めた表意性を執拗に追求し、他方で墨あるいは色料(顔料)と「地(絹や紙)」の色とを等価に扱い、平面的でやや装飾的な画風を作り上げた。士大夫の画・文人の画として「気韻生動」を求めるならば、その気韻とは彼ら画家自身の内面の表出であらねばならなかったのであり、唐宋の絵画が一貫して描写してきた他者として外在する自然は、もはや彼らにとっては制作のきっかけに過ぎなくなった。ちょうど書道において、書かれる内容(詩文)が必ずしも作家の最も伝えたい事柄ではなく、書く手段(書)によって表出される書家の内面の動きが、作家として最も伝えたい事柄であったのと同様である。
 このようにしてみると、元の「復古」主義の画家たちの創作態度の根底には、蘇軾から米芾・米友仁父子へと継承された「墨戯」の伝統が横たわっていることが知られよう。これより後、山水画は自然の再現 representation から、画家の内面の表出 expression へと、大きく転換した。

 山水は自己表出に当って必要な素材に過ぎないであるから、画家は自ら苦心して自らの山水を創出する必要はなくなったのであって、過去のものであれいくつかの「型」が手に入ればよい、というのが、「復古」主義の持っていたもう一つの顔であろう。
 しかし、異民族による支配と抑圧の下で、強烈な自己表出のためには自らの「型」を必要として、それを作り上げた画家たちが出た。「元末の四大家」と呼ばれる人々、すなわち黄公望{コウコウボウ}(1269-1354)呉鎮(1280-1354)倪瓉{ゲイサン}(1301-1374)王蒙(?-1385)の四人である。当然のことながら、彼らは一人一人真に個性的な様式を、高い達成度を伴って完成した。
 この時代を、10世紀に次ぐ第2の創造の世紀と呼んで差し支えない。


〔明清の山水画〕

 明(1368-1644)・清(1636-1911)の山水画は、おおむね元の山水画の延長線上にある。

 明は、永楽(1403-1424)ころ北京に画院を置いた。明前半の山水画壇は、この画院を足がかりに浙派が隆盛を誇った。浙派とは、明末には、杭州(浙江省杭州。古名は浙)生まれの戴進(1388-1462)を始祖とする流派で、この時期に活動した職業的山水画家の総称であると、考えられていた。
 しかし浙派は、画家の集団として流派的な活動をしたものではないので、その画風は画家の出身地や活動年代によりさまざまで幅広い。しかしおおむね、南宋院体山水画様式・それと関係する浙江地方水墨山水画様式・元代李郭派の画風・米法山水元末四大家の画風などを取り入れながら、平面性・装飾性を重視しつつ、北宋山水画が達成したモニュメンタルな様式の復興を目指したものである。


 明の後半期には、呉派が台頭した。沈周(1427-1509)文徴明(1470-1559)とその門下の画家たちが蘇州(江蘇省蘇州。古名は呉)で流派を確立したものである。呉派は文人画家の集団である。元の山水画のあり方を継承し、元末四大家の作り上げた「型」に倣い、豊かなバリエーションを紡ぎだしながら自己の感興を画面に定着させた。
 呉派を主要な流派として認めさせるのに一役買ったのは、評論家の何良俊(1506-1573)である。かれは「行利家論」を唱えて、文人画家による呉派の絵画が、職業画家による浙派の絵画より優れていることを主張した。


 明末になると、画壇の中心は松江(上海市松江)に移った。この派の頭領・董其昌(1555-1636)は、元末四大家の中でも黄公望を学び、さらに米法山水・董源・王維の画風までを研究し、山水画の構成要素をいったんパーツパーツに分解し、それを抽象的な色と形によって再構成し、そこに独自の感興を盛って、表出性のきわめて高い新様式を打ち立てた。
 董其昌は、他方、評論家としては蘇軾の「士人の画」論・何良俊の「行利家論」などの先行する理論を集大成して「南北宗論」「文人画論」を唱え、その後の絵画評論と制作の方向を決定付けた。


 清代の山水画を考える上で、理解しておくことが必要な三つの枠組みがある。
 第一は、明代後半に入ると商工業の発展を背景として主として江南の諸都市が繁栄し、諸芸術も首都の宮廷への一極集中ではなく江南の諸都市の富裕層へと拡散して行ったことである。既述した蘇州・松江などはその明代における例である。この傾向は、清代に入るといっそう大きくなった。金陵(南京)・揚州などはそのような代表的な都市であり、清末には上海が台頭した。これらの都市の富裕層は、パトロンとなって画家を庇護したので、多くの創造的な画家たちがこれらの都市に拠って活動した。
 第二は、明末のマテオ・リッチ以来、中国には陸続とイェズス会の宣教師たちがやってきて、西洋画や西洋画法を伝えた。しかし中国の人々は、17世紀に一部の画家たちが陰影法や遠近法の影響を若干見せるに止まり、西洋画を多分に摂取することは無かった。西洋画法は、むしろ進取の気質を持っていた清朝宮廷に受け入れられ、画院は西洋画風に法るやや特殊な画風を示す画家たちの牙城となった。
 第三は、清が満州民族による征服王朝であったことである。ことに明初において、多くの文人たちが反清の鬱憤を書画に晴らした。反清の思いの深さやその行動への反映は人それぞれであったが、文字通りの遺民であった八大山人(1626-1705)石濤(1642-1707)から、金陵八家の筆頭である龔賢{キョウケン}(1620-1689)、安徽派の弘仁(1610-1663)ほか、多くの文人たちが山水画を画いて綺羅星の如く競い合い、画壇は稀に見る活況を呈した。この17世紀を、10世紀・14世紀に次ぐ、中国絵画史上第3の創造の世紀として異論はあるまい。

 中国絵画史上最後の輝きを放った17世紀の山水画は、どれも多かれ少なかれ、董其昌の改革の落とし子としての一面を持っている。
 董其昌による古典の研究と典型主義は、これより後画壇の主流となったので、多くの「倣古」山水が制作され、また清初に四王呉惲というの典型主義の画家たちを生み出し、またかれらの後継者たちの活動は19世紀にまで及んだ。
 ところが、董其昌の改革者としての側面からは、山水画の抽象性を推し進めた、極めて個性的な山水画家が輩出した。八大山人・龔賢{キョウケン}・法若真らは、その代表的な存在である。


 しかし、石濤は、董其昌の影響から免れて独自の山水画様式を独力で築き上げた画家である。その一つ一つの筆触に内面のエネルギーを託した造形は、後の山水画家に強いインスピレーションを与え、清・揚州八怪から現代・張大千(1899-1983)を筆頭とする20世紀の画家たちにも多大の影響を与えている。


跡見学園女子大学 *** 柳上書屋 *** Students' Top *** 中国絵画史辞典 *** Page Top

Copyright (C) 2003-2008 SHIMADA Hidemasa.  All Rights reserved.