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たけ 竹 zhu
山水画・花卉画の題材。
タケ(竹)は、東南アジア原産で中国の河南以南に分布するイネ(禾本)科タケ亜科に属する植物の総称。
世界のタケ1300種中、中国に400に種以上を産すというが、種数・種名には諸書により大幅な異同がある。
タケノコなど柔らかい部分を食用とするほか、工芸・建築の素材とするなど、極めて有用な植物であり、古くから植栽されてきた。
その故に用語も細分されており、笋{シュン}sun・荀{シュン}sun はタケノコ(今日の中国語では竹笋 zhusun)、竹鞭はタケの地下茎、鞭筍は地下茎の先端の柔らかく食用とする部分、籜{タク}tuo はタケの皮、籜葉{タクヨウ}はタケの皮の先に着いている緑色の小さな葉のようなもの、筍衣はタケノコの先の方の皮で柔らかくて食用とする部分を言う。
古来竹については、儒家・道家・禅宗ともそれぞれに何らかの理屈をつけてはこれを愛でる。タケの常緑性、タケノコから竹へとから一気に伸びてゆく生命力、その際直線的にすくすくと伸びてゆくすがすがしさ、後に節々となって伸びてゆく部分をタケノコのうち(譬喩的には「素質」のうち)から持っていること、等々が愛せられたものである。
「竹林の七賢」の故事にも明らかなように、すでに六朝(220-589)時代には知識人より愛され、王徽之(?-388)は「何くんぞ一日も此君無かるべけんや」という(『世説新語』任誕)。
一説に、舜が亡くなったときに、その后妃であった娥皇と女英(湘君・湘夫人)が流した涙が、その地に生えていた竹の上に落ち、その竹は緑の上に黄色い斑紋を生じたといい、これを斑竹という(実際には、タケに細菌が付いて病変を起こしたもの)。この斑紋のある竹は、変化に富んだ文様の美しさによって、しばしば詩文に取り上げられ、また工芸品の素材とされた。
絵画においても、のちに墨竹が画かれるとき、しばしばこの薄幸の二人の女性が意識されていた。
竹を画くことも、六朝時代から始まった。しかし竹を独立して画くことは、唐代に始まるらしい。李衎{リカン}(1245-1320)は古く画竹を善くした作者名を列挙して、「唐の王右丞(王維)・蕭協律(蕭悦)・僧夢休、南唐の李頗{リハ}、宋の黄筌父子・崔白兄弟及び呉元瑜」という(『竹譜詳録』)。古い伝統的な画竹の法は、まず輪郭線を引き(鉤勒)、次いでその内側に色彩を塗る(填彩)、いわゆる鉤勒填彩法によった。これに鉤勒線のみあって填彩しない白描になるものを含めて、双鉤竹と呼ぶ。
これらに対して、輪郭線を用いず墨のつけたて(没骨)で竹の枝葉を画くいわゆる墨竹の起源について、李衎は「墨竹、また唐より起る。しかして源流は未だ審らかならず」という(『竹譜詳録』)。墨竹の語自体は、黄休復『益州名画録』(1005)の孫位の条に「昭覚寺休夢長老請画浮■{フオウ}先生、松石墨竹一堵。云々。松石墨竹、筆精墨妙」とあるのが初見である。李衎も「『広画集』に載するに、孫位の松石墨竹、また成都大慈寺院潅頂院に張立の墨竹画壁有りと。孫・張、皆な晩唐の人、蜀中皆な墨竹有り」という(『竹譜詳録』)。
墨竹の起源に関する諸々の伝説のうちもっとも有名なものの一つは、五代の武人・郭崇韜{カクスウトウ}(?-926)の室・李夫人とする説である。すなわち李衎『竹譜詳録』に「旧説に郭崇韜夫人李氏、月夜影を模して窓に作る。自後往往之に效う者有り」とある。夏文彦『図絵宝鑑』(1365)巻2の李夫人の条にはやや詳しく「月夕、独り南軒に坐するに、竹影婆娑として喜むべし。即ち起ちて揮毫濡墨し、窗紙上に摸写す。明日之を視るに生意具足す。或いは云う、是れ自り人間往往之に效い、遂に墨竹有りと」とある。しかし郭煕の『林泉高致集』山水訓には「竹を画くを学ぶ者は、一枝の竹を取りて、月夜に因りて其の影を素壁の上に照らせば、即ち竹の真形出でん」とあり、文同は「高松 疏月を漏らし、落影 地に画けるが如し」といい(「新晴山月」)、類型的な発想に基づく伝説であろう。また李衎が指摘するとおり、孫位の方が李夫人より時代が先行する。
世に墨竹が栄えたのは、もっぱら文同(1018-1079)が得意とし、蘇軾(1035-1101)がこれに題跋(文画蘇題)してより後の事である。これより竹を植え、竹を詠み、竹を画く風が大いに広まった。この文同の流派を湖州竹派と呼ぶ。
その法は、竹をスケッチすることではなく、胸中に生まれた竹のイメージ(胸中の成竹)を絵画化することであった。すなわち蘇軾は文同から教えられた画訣として、「故に竹を画くには必ず先ず成竹(竹としてでき上がったイメージ)を胸中に得て、筆を執りて熟視し、すなわちその画かんと欲する所のものを見れば、急ぎ起ちてこれに従い、筆を振るいて直ちに遂げ」よという(「文与可の画ける篔簹谷{ウントウコク}偃竹の記」)。
墨竹が持つこのような表意性の一面は元以降も継承された。そのもっとも先鋭な宣言は、倪瓉{ゲイサン}(1301-1374)による次の言葉であろう。すなわち「予の竹は聊か胸中の逸気を写すのみ。豈に復た其の似ると非と、葉の繁なると疎なると、枝の斜なると直なるとを較べんや。或いは塗抹すること之を久しくして、他人視て以て麻と為し蘆と為すも、僕強弁して竹と為すこと能わず」(1368,「書画竹」)と。
元以降、文人のたしなみとして広く行われた墨竹は、形似と写意の間を往復した。
なお、後世、朱墨を以て竹を付立てで画くことが行われるようになった。これを朱竹という。
墨竹の墨を朱墨で置き換えたものであるが、縁起物として吉祥の意を込めて作られ、飾られる。
【作品】
鈎勒填彩の画竹の例として、
○五代・阮郜{ゲンコウ}「閬苑{ロウエン}女仙図」巻(北京/故宮博物院蔵)
白画の双鉤竹の例として、
○遼・作者不詳「竹雀双兎図」軸(10c.中葉, 瀋陽/遼寧省博物館蔵)
初期の墨竹の例として、
○南宋・揚無咎(1097-1171)「墨竹図」冊頁(台北/国立故宮博物院蔵)
○元・李衎(1245-1320)「墨竹図」軸(日本/御物)
後世の墨竹の例として、
○清・石濤(1642-1707)・王原祁(1642-1715)合作「蘭竹図」軸(1691, 台北/国立故宮博物院蔵)
○清・鄭燮(1693-1765)「墨竹図」屏風(1753, 東京国立博物館蔵)
朱竹の例として、
○明・倪元璐{ゲイゲンロ}(1593-1644)「朱竹図」軸(1639, 台北/国立故宮博物院蔵)
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