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おうぎし 王羲之 Wang Xizhi
一説に晋・大興4(321)年-太元4(379)年
晋の書家、人物画の主題。生卒年には 303-361(『東観余論』の説)、321-379(『晋書』本伝の説)、307-365などの諸説があり、定まらない。字は逸少、瑯琊{ロウヤ}臨沂{リンギ}(山東省)の名門・王氏の出身。晋南渡の功臣王導(276-339)のいとこ、王■{オウイ}(276-322)のおい。早く父を失い、この両者の庇護を受けた。
官僚としては、寧遠将軍・江州刺史などを経て、永和7(351)年に右軍将軍・会稽内史となって山陰(浙江省紹興)に赴任し、ここに4年間を過ごした。この最後の官名によって王右軍と呼び習わす。(なお、この頃の別墅といわれるものが戒珠寺(1531&1718重修)として紹興西街に遺る)。
王述(303-368)と合わず、同11(355)年官を辞し、以後悠々自適し、謝安(320-385)・支遁(314-366)・遜綽らと清談した。退任後の居所は、初め会稽山陰の蘭亭、後に剡県{センケン}(浙江省嵊県{ジョウケン})の華堂金庭山、後者に墓がある。
少にして書をよくし、王■{オウイ}の指導を受け、また漢魏以降の書を集大成して、今日行われている楷書・行書・草書を完成し、後世「書聖」と称えられる。
「楽毅論」「蘭亭序」「十七帖」「快雪時晴」「奉橘」「喪乱」「孔侍中」や唐・懐仁が集字した「聖教序」等の作品が伝世する。
後世、王羲之が山陰に隠退ののち謝安・支遁らと山中に遊ぶさまを、山陰図・山陰高会図として画く。
また、永和9(353)年上巳{ジョウシ,ジョウミ}(陰暦3月初めの巳の日の意だが、魏のころ巳の日ではなく3月3日と定められた)の日、山陰の蘭亭に名士謝安ら41人を招いて修禊(禊はみそぎ、上巳の節句に水辺で行う祭事)し、流觴{リュウショウ}曲水の宴を催して詩酒に興じた(雅集)が、これが蘭亭修禊の故事である。この時、参会者の詩を集め、その巻首に王羲之は自ら序文を書いたが、これが「蘭亭序」である。「蘭亭序」は文章書跡ともに王羲之の傑作として名高かったが、王羲之の書を偏愛した唐の太宗(在位626-649)は蕭翼{ショウヨク}を遣わして僧・弁才の処にあった「蘭亭序」を賺{ダマ}しとらせた。これが蕭翼賺{タン}蘭亭の故事である。のち太宗は「蘭亭序」を愛するあまり没後これを昭陵に殉葬させたので、今日にはその模本しか伝わらない。
なお、当初の蘭亭は湮滅して伝わらず、今日の蘭亭(紹興市西南14km蘭渚山下)は1548年に故事を追念して作られたものという。
また、王羲之はガチョウを好んだ。あるとき山陰の一道士が好い鵞鳥10数羽を養殖しているのを知り、往ってこれを買おうとした。道士は、もし自ら『道徳経(一説に黄庭経)』を書いてくれるなら、すべて差し上げよう、と言う。そこで王羲之は、半日でこれを書き、ガチョウを籠に詰め込んで帰った、という。これが王羲之換鵝の故事である。
これらの王羲之にまつわる山陰高会・蘭亭修禊(雅集)・蕭翼賺蘭亭・写経換鵝などの故事は、いずれも絶好の人物画題として、後世しばしば画かれた。
【作品】
蕭翼賺蘭亭の作例としては、
○唐・閻立本(伝)「蕭翼賺蘭亭図」巻 (台北/国立故宮博物院蔵)
○五代・巨然「蕭翼賺蘭亭図」軸 (台北/国立故宮博物院蔵)
観鵝の作例としては
○元・銭選「王羲之観鵝図」巻(ニューヨーク/メトロポリタン美術館蔵)
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